bokushi_01.jpg 待降節第2主日 ルカ316 「荒れ野で叫ぶ声」   田島靖則

 

 私たちキリスト教徒にとって、聖書に記される「洗礼者ヨハネ」という人は、一体どのような意味をもつ人物なのでしょうか?よく言われますことは、「洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの先駆者であった」ということですが、これも分かったようでいて実はよく分からない説明です。「先駆者」とは何でしょうか?「先駆者」とは、読んで字のごとく「人に先駆けて物事をなす人」という意味ですが、ヨハネは一体なぜ主イエスに先駆ける必要があったのでしょうか?

 ある人は、ヨハネを「相撲でいえば露払いのようなものだ」といいますし、またある人は、「歌手のコンサートの前座のような存在だ」と思っているようですが、本当に、その程度の役割を与えられた存在だったのだろうかと首をひねりたくもなります。

 ご承知の通り、クリスマス物語のなかで、寄る辺なきマリアを陰で支えたのが、同じように身ごもっていたヨハネの母エリサベトでした。相前後して生まれたヨハネとイエス。この二人の関係を何にたとえるべきかと頭をひねるとき、私が真っ先に思い浮かべるのが、19世紀末の英国の作家オスカー・ワイルドの作品『幸福な王子』です。『しあわせのおうじ』という表題で絵本にもなっていますから、皆様もご存知だと思います。

 

 一羽のつばめが出て参ります。仲間たちはみんな暖かい南の国へ渡ってしまったのに、どういうわけかこの一羽のつばめだけは、すっかり寒くなった街の広場に取り残されています。その街の広場の真ん中には、立派な王子の銅像が立っています。王子の目はサファイアで、腰の剣にはルビーが飾られています。その全身はぴかぴかの金箔に包まれていました。

 王子の銅像の足もとに一夜の宿を求めたつばめは、王子の目からこぼれ落ちる涙に気付き、頼まれるままに、剣のルビー、王子の目に飾られているサファイア、そして身体を包む金箔を、街の貧しい人たちのところへ届ける役を引き受けます。こうして王子は持っているものすべてを、街の貧しい人、困っている人にあげてしまいます。

 そうして、この王子の銅像に飾られていた宝ものが、一つ残らず取り外されてしまったとき、街の人たちはその銅像をただの「がらくた」同然に扱うようになります。

 やがて、王子のために働き、暖かい国に渡る時期を逸したつばめは、王子の足もとでひっそりと死んでゆきます。

 そして王子の銅像は、引き倒され、捨てられてしまうのです。

 

 「ああ、あのお話か」と思い当たった方もおられるでしょう。

 作家のオスカー・ワイルドは、キリストの生涯に並々ならぬ興味を抱いていたといわれます。最後に引き倒され、捨てられる王子の銅像は、もちろんイエスを指しています。そして、王子のためにあちこちの貧しい人たちに宝物を配ってまわったつばめこそ、洗礼者ヨハネです。

 ワイルドは、もうひとつの有名な作品として、戯曲の『サロメ』を残していますが。その戯曲『サロメ』のなかで悲劇的な死を遂げるのも、洗礼者ヨハネその人です。ワイルドはヨハネを「ヨカナーン」という名前で戯曲に登場させます。戯曲の一場面をお読みしましょう。

 

 ヨカナーンの声がします。「私の後に来るのは、私よりも力のある方だ。その方が来られるとき、荒れ果てた地もよろこぶだろう。ゆりのように花開くだろう。」

 兵士が言います「あいつを黙らせろ!あいつはいつも、訳の分からぬ事ばかり言う」。「いや、いや。あれは聖者だ。それにとてもやさしい」。「何者だ?」。「預言者だ」。「名前は何という?」。「ヨカナーン」。「どこから来た」。「砂漠からだ。そこでは、いなごと野蜜を食べていた。革の帯をしめていた。そのなりふりはものすごかった。多くの人々が彼の後に従っていた・・・弟子さえあった」。「何をしゃべっているのだろう?」。「おれたちにはさっぱりわからん。ときどき、身の毛もよだつようなことを言う。だが、何を言っているのかはわからない」。

 

 この戯曲に登場する兵士というのは、ガリラヤ領主のヘロデに仕える兵隊ですから、当時、兄弟の妻を奪うというヘロデ王の愚行を手厳しく批判していたヨハネの言葉を「理解できない」というのも分かります。しかしその兵士たちをして「やさしい聖者であり、預言者である」と言わしめるのが洗礼者ヨハネという存在です。

 本日の福音書の日課によれば、時は皇帝ティベリウスの治世の第15年。つまり、マリアとヨセフのベツレヘム行きのきっかけとなった人口調査を命じた皇帝アウグストゥスの後任としてティベリウスが即位したのが紀元14年ですから、計算するとこの年は、紀元27年〜28年を指しているとわかります。この年、神の言葉がヨハネに降ったと聖書は語ります。

 

 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

 洗礼者ヨハネは「荒れ野」に現れたと記されています。「荒れ野」は本来、人の住めるような場所ではありません。ヨハネが荒れ野に現れたという言葉で示されていることは、人として生きることが困難な状況のなかに置かれている人たち、荒れ野のような現実を生きなければならない人たちのところへまず彼が訪れたということです。ヨハネは「荒れ野の現実にもかかわらず、あなたがたが生きることを強く望まれる神様のもとに立ち返りなさい」と勧めます。

 本日の福音書の日課の続きを読みますと、洗礼者ヨハネが手厳しく「悔い改め」を迫った相手は、ヘロデ王に代表されるような裕福で「自分こそ正しい者」とうぬぼれている人たちであったことが分かります。そして、搾取され虐げられ貧しさの中で困窮にあえぐ者たちには、裁きの言葉ではなく、「下着や食べ物を分け合うように」との、優しさに満ちた的確な言葉を残しています。

 洗礼者ヨハネは、その生涯をひたすらに「キリストの到来を告げ知らせる者」として生き抜きました。その証拠に、彼はキリストとしての主イエスの出現とほぼ時を同じくしてその生涯を終えています。

 オスカー・ワイルドが戯曲で描いたように、その最期はヘロデ王の宴会の座興として命を奪われるという、まことに悲惨なものでした。しかし、彼が命をかけて指し示そうと努めた場所に、主イエスが立っておられ、ヨハネが完成できなかった「罪の赦しのわざ」と「抑圧された人々の解放」を果たし、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という旧約聖書の預言の言葉は実現したのです。

 戯曲『サロメ』のなかで、宴会の座興にヨハネの首を所望するサロメに向かって、ヨハネはこう語りかけます。

「娘よ。おまえを救い得る方はただ一人しかおいでにならぬ。わたしがおまえにいうのは、その方のことだ。その方を探しに行け!その方は、自分を呼び求めるすべての人のもとへ来られる。」

 私たちもまた、洗礼者ヨハネの指し示すかなたをしっかりと見つめ、主イエスと出会うためのクリスマスの備えの時といたしましょう。

 

 

 

bokushi_01.jpg降誕祭 ルカ13945(ルカ14655) 「たったひとりの理解者」 田島靖則

 

 1940(昭和15年)1231日午後1030分、NHK交響楽団の指揮者ヨーゼフ・ローゼンシュトックがベートーベン第九のラジオ生放送を行います。これを企画したのは当時のNHK職員だった三宅善三という人です。彼はその理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」と語っているそうですが、実際にはドイツにそうした習慣はなく、これは彼の勘違いであるといわれています。「年末は第九」という「季節の風物」が、勘違いから生まれたというのもおかしなお話しです。もっとも、日本で年末に第九が頻繁に演奏されるようになった背景には、終戦後オーケストラの収入が少なくて、楽団員の年末年始の生活に困る現状を改善したいという現実的な思惑もあったということです。

ちなみに、日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が歌われたのは、第1次世界大戦時の四国、徳島にあったドイツ人捕虜収容所でのこと。当時の収容所の監督であった軍人も、また地元の人達も、捕虜であるドイツ人たちを、人道的見地からも恥ずかしくない態度を持って扱ったときいています。

 だいぶ前ですが、サハリンに住んでいるひとりのドイツ人女性の話を、なにかの文章で読んだことを思い出します。ある時、日本人ジャーナリストがサハリンのユジノサハリンスクという北海道に近い町から、サハリンの中央部ティモフスクという町まで列車で旅をしたとき、列車が駅に着くと、ずきん姿の物売りの農婦たちが声をかけてきたそうです。そこで、アンナ・ベックさんという名の60才の女性と話をするうちに、彼女が第2次大戦の時に強制移住させられたドイツ人女性であることを知ります。そのジャーナリストが「町にドイツ人はたくさんいるの?」と尋ねると「もういない」と小声で答えたそうです。自分は少数民族の取材で北へ行くと告げると、「私も少数民族なのに・・・」と答え、続けて「ねえ、日本へ行けるとしたら、国境で私を助けてくれる?」と問いかけてきたそうです。そこでジャーナリスト氏は返事に窮していると、彼女は淋しそうに笑ったそうです。彼女が移住してきたのは1941年、独ソ戦開始の年、彼女はまだ4才だったということを話してくれたそうです。もっと詳しい話を聞こうとした時に、列車の出発の汽笛が鳴ります。そこでジャーナリスト氏は「ダスビダニア」と、ロシア語で別れを告げました。すると彼女は、近くの他の農婦に聞こえないように、こうささやいたそうです「アウフ・ビーダーゼエン」。ドイツ語で「さようなら」。

 今、私たちは今年のクリスマスをどんな気持ちで迎えようとしているでしょうか?私たちが、今抱えている悩みはどんな悩みでしょうか?私たちは、安心して自分の国に住み、日々の糧に事欠くこともない。それでも、自分が見捨てられた存在だと感じる人が、多くいるのは何故なのでしょうか?

 さて、クリスマスウイークの始まりである本日、私たちに与えられた福音書の日課は、イエスの母マリアと、その親類の年老いた女性エリサベトの姿を、私たちに伝えております。不思議な神の力によって、赤ちゃんが宿ったという、天使による受胎告知を受けた若きおとめマリアは、天使に向かって「お言葉どおり、この身になりますように」と答え、神様への信仰を告白しますが、しかし、それでマリアは落ちついて家でじっとしていることは出来なかったようです。 確かにマリアは、素朴な信仰と、こういった出来事を起こされた神様への信頼を持っておりましたが、しかし、目下の所このことを知っているのは「神様と私」だけ。自分のまわりで、今起こっている出来事に気付いている者は誰一人おりません。「マリアの淋しさ」「マリアの孤独感」を共有してくれる者は誰一人おりませんでした。 

 ところが実は、この「マリアの密かな苦しみ」を分かち合える人が、たった一人だけいたのです。それは、マリアの住むナザレ村からは23日ほどの道のりであるユダの町に住む、親戚の女性エリサベトでした。天使はマリアに向かってこう告げたのです「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6カ月になっている。神にできないことは何一つない」。

 マリアは神様のお心を信頼しながらも、人知れぬ大きな「淋しさ」「孤独」を抱えたままで、じっとしていることはできませんでした。それで、旅支度を整え、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と聖書は語ります。マリアにとって、このエリサベトという親類が、日頃から懇意にしている親戚であったのかどうか定かではありませんが、身分的に見れば、マリアはガリラヤのナザレという田舎町に住み、大工の青年のいいなずけであるということからも、社会的な身分が高かったわけでも、家柄を誇るような立場にあったわけでもないということが分かります。一方エリサベトは預言者と言われたモーセの兄、アロンの家の直系の子孫であり、神殿祭司のザカリアの妻という立場でありました。つまり、平民と貴族という身分の違いがあったということです。もしかしたら、口もきいたことのないような、そんな親戚関係だったかもしれません。しかし、今、マリアにとっては、この親類のエリサベトだけが、自分の身に起こっている出来事を理解し合うことのできる唯一の人間です。彼女は、急いで山里に向かい、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をしました。

 するとどうでしょう、もう十分に高齢であったエリサベトのおなかの中の赤ちゃんが、マリアの声を聞いて喜び踊ったのです。エリサベトはこのことを感じると、親類の娘マリアの身に起こっていることを理解し、即座にこう答えます「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。

 マリアが、この言葉を聞いて思わず涙ぐむ姿を想像できるでしょうか?「自分はひとりぼっちではない」「神様は、私を慰めるために、この人との出会いをつくってくださった」。クリスマスの物語は、一人の寄る辺なき身の女性に過酷な運命を課しましたが、その「まったくの孤独」と思われる身の上に、神様は「避けどころ」「避難所」を用意されるということを私たちに伝えようとしています。

 私たちも、ある時はマリアのようであり、またある時はエリサベトとしての役を担う者でもあります。

 マリアがめでたくヨセフと結ばれ、そして神様の愛を惜しみなく示し、良い知らせを私たちに伝え、そして私たちのために十字架に架かられたキリストがお生まれになった。クリスマスは、この喜びをしみじみと噛みしめる時です。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。

 この言葉を胸に刻み、クリスマスの喜びにあずかりましょう。

bokushi_01.jpg 聖霊降臨後第10主日 マルコ66b13

   「教え、伝え、奉仕する」

 

 「学生割引=学割」という制度は、大変ありがたいものです。かつて長い学生生活を経験した私のような者にとりましては、JR の学割料金や、映画館・美術館の学割入場券から、散髪屋の学割料金まで。とにかくあらゆる学割のお世話になってきたわけです。

 ちょっと前にテレビを見ていましたら、最近は新手の学割が登場しているというレポートが放送されていました。それは、「美容整形」の学割なんだそうです。「あなたも、進学や就職を前にしてちょっと美容整形してみませんか?」というようなキャッチフレーズで、学生向けの美容整形が格安料金でできるということでした。

 「進学や就職のための美容整形」とは一体何なのか?と思われるかもしれませんが、最近ではこれも決して珍しいことではないようです。以前新聞記事で「やっぱりあった容姿端麗テスト!」というような見出しで、ある会社の就職試験には、面接の評価基準のひとつとして「容姿」の善し悪しが見られているということが報告されておりました。つまり、「就職のための美容整形」が成立する土壌はやっぱりあるということです。また最近では、大学受験を控えた子供を持つ親が、子供を美容整形に連れていくというような話も耳にいたします。勉強面での努力の他に、受験の勝敗を分ける要因があるとすれば、それが面接試験の第一印象であるということのようです。 

 少し前なら「親からもらった大切な体に何ということを!」という反応もあったのでしょうが、今はその「親」が子を美容整形に連れていく時代なんですね。

 こうして「人間の持つ個性」というものは徐々に薄められていきます。クローン製造などを可能にする現代のバイオテクノロジーが、遺伝子レベルで未来の子供たちの容姿や能力を操作し始めることも、あながちないとは言えない状況になってきていると思うこの頃であります。

 さて、本日私たちに与えられました福音書の日課は、主イエスが12人の弟子たちを、宣教の旅に送り出すという記事を伝えております。イエスは「汚れた霊にとりつかれて苦しむ人=つまりは自分ではどうすることもできない精神的・心理的苦しみを抱えている人」や病気に悩む人たちに、「神様の慰めの知らせ=福音」を伝えるために、12人の弟子たちを各地の村々に派遣いたします。

 弟子たちにとりましては「プロの伝道者・牧会者」として、ここが勝負の為所であります。聞く耳を持たない人たちに、どうやってこの「キリストの良い知らせ」を伝えるのか?様々なしがらみに捕らわれている人に、どうやってそこからの解放を告げ知らせるのか?人々の目を引くような服装をするべきか?人々が目をとめるような持ち物を持っていくべきか?いざというときのために、たくさんのお金を用意するべきか?色めき立つ弟子たちを前にして主イエスは言われます。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」。

 「ただ杖一本持って、履物を履いたら出かけなさい!」とイエスは言われます。何と禁欲的な命令だろうか?と思われるかもしれません。なぜ主イエスは「杖一本と履物だけ」で行きなさいと言われたのでしょうか?禁欲的であることが神様のめがねにかなうことだからでしょうか?禁欲自体が、一つの積極的な修行なのでしょうか?

 そうではないでしょう。主イエスがここでおっしゃっていることは、あなたは様々なものの力を借りなくともよい。あなたはあなたのままで生きることができる。あなたは、そのままで勝負することができる!ということであります。

 マタイによる福音書の中で、「空の鳥や野の花がどうであるか見てごらんなさい!」とイエスは言われました。

 「あなたは杖一本と履物一足で十分に勝負できる!」このことを忘れてはならない!と主イエスは言われるのです。

 そうして、杖一本と履物一足だけの出で立ちで旅に出た弟子たちの「勝負の結果」はどうだったでしょう?

 紆余曲折、数しれない挫折を経て、弟子たちの蒔いた「福音の種」は、2000年経った今、世界中のキリスト教会を通して私たちを支え、励まし、癒す力となって実を結んでいます。

 私たちの教会は、「たった一本の杖と一足の履物」から始まったのです。

 この私たちだって「杖一本と履物だけ」で勝負できる。

 なぜならば、私たちを人生の旅に送り出してくださった神様が、私たちの「後ろ盾」であるとキリストは言われるのですから。

 私たちはしばしば「徒手空拳」で人生の荒波をかき分けて生きているように思います。

 しかし私たちには、「杖一本と履物一足」に加えて必要な様々なもの、様々な協力者が与えられています。

 私たちもあの弟子たちのように、「不足は補われること」を信じて、日々生きる者になりたいと思います。

 

bokushi_01.jpg  聖霊降臨後第8主日 マルコによる福音書5章2143節

                「安心して行きなさい」 

 

 映画「男はつらいよ」の寅さん役でお馴染みだった、俳優:渥美 清さんが亡くなったのが今から12年前の84日でした。熱狂的な寅さんファンというのはおられるようで、国民的アイドルだった寅さんへの思いを、どうしても断ち切れずに、本当に死んだ寅さんを「アイドル」にしてしまったという話を聞いたことがあります。どういうことかと申しますと、「男はつらいよ」の第49作の舞台として誘致運動を行っていた高知県安芸市のグループが、記念に「寅さん地蔵」なるものを作って、国道55号わきに安置したということでした。写真を見ると、あのフーテンの寅さんが、帽子をかぶり、背広を羽織って蓮の上に合唱して座っている姿で石造りの地蔵になっているのです。

 その写真を見た瞬間に、ひどく興ざめな思いがしましたのは、べつに私が仏教嫌いだからというわけではありません。フィクションであったにしろ、寅さんという人は、ままならない人生を、不完全なひとりの人間として精一杯生きている人だった。その「不完全な人間としての精一杯な生き様」に共感を集めていた寅さんが、悟りきった神様やお地蔵さんになってしまったら、それは「ウソ」ではないか?と素直に感じてしまうからなんです。

 こう考えますと、イスラエルの伝統のなかで、なぜ「偶像を刻んで、それを拝んではならない」と厳しく言われ続けたのかが、少し分かる気がいたします。「偶像」にはかならず「ウソ」がつきまとうということなんですね。

 これは蛇足かもしれませんが、渥美清さんはクリスチャンだった奥様の薦めで病床洗礼を受けられたとも聞いております。

 また、ある新聞の小さなコラム記事に、ギリシャのお葬式のことが書かれてあったことを思い出します。渥美清さんが亡くなった12年前の今頃、ギリシャのアテネでは国民的大女優と言われたアリギさんという人の葬儀が盛大に行われました。その時、霊柩車に乗せられた彼女が、教会から街頭に出てくると、集まった人たちが一斉に手をたたき始めたんだそうです。車に向かって大声で呼びかける人、腕を振り上げる人などがいて、葬儀らしくない光景が現れ、拍手はいつまでも鳴り止まなかったそうです。そこにいた日本人の新聞記者は、一体何事かと知人のギリシャ人に尋ねたところ、「神様のもとに行けるようになって良かった。お幸せにという意味で祝福を送っただけだ。」という答えが返ってきたそうです。

 民族的宗教観の違いと言ってしまえばそれまでですが、「愛する人の死」という悲しみの乗り越え方にも様々あるということです。

 さて、本日私たちに与えられた福音書の日課は、ふたつの奇跡物語を伝えております。 主イエスがガリラヤ湖のほとりにおられるとき、ユダヤ教社会で高い身分にある会堂長が、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と懇願いたします。この懇願を受けてイエスは会堂長と一緒に出かけて行かれます。すると、その道すがら大勢の群衆に紛れて、12年間も病気に悩んでいた女の人が、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエスの後ろからそっとその服に触れました。すると、彼女はすぐに出血が止まって病気がいやされたことを体に感じます。

 足を急がせていた主イエスは、すぐに立ち止まり「わたしの服に触れたのはだれか?」と言われます。その女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て、すべてをありのままに話しました。そして、イエスはお答えになります「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。

 そんなことをしているうちに、会堂長の家から使いの者が来て、幼い娘が息を引き取ったことを伝え、もう主イエスのご足労には及ばないと言います。しかし、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、人々の「もう手遅れだ」という声の中、そのような人々に対して「子供は眠っているのだ」と答えます。人々があざ笑うなかを、子供の両親と3人の弟子と一緒に子供の部屋へ入ったイエスは、横たわる子供に向かって「少女よ、起きなさい」と話しかけます。すると、少女は蘇生し、人々は驚きのあまり我を忘れたと聖書は記しています。

 このふたつの奇跡物語が私たちに伝えていることは、一見絶望的な現実があるけれども、そこで「あきらめてはいけない!」のだということであります。

 12年間も病気に悩んだ女性がいた。彼女は、まともにイエスに声をかけることすらできなかった。なぜなら、「病気の治らない汚れた者」として退けられることを恐れていたからです。現実に彼女は普段、事情を知るあらゆる人から「汚れた者」として扱われていました。だから彼女は、群衆に紛れて、そっと主イエスの服に触れる方法を選んだ。それが彼女の精いっぱいのやり方でした。そして、彼女は、12年間の悲願を現実のものとすることができました。「安心して行きなさい」という主イエスの言葉とともに。

 私たちに命を与え、私たちを生きる者としてくださった神様を信じるのならば、こんな自分も神様に望まれて生まれてきたのだと信じるのならば、どんな現実にぶち当たっても、キリストに、また神様に対して抱いている信頼を中断させてはいけない!と、福音書を通してキリストは語られます。

 私たち信仰者に与えられている希望は、「私たちの死」によってすら中断させられない希望です。いつか私たちは死ななければならない。それは紛れもない事実です。しかし、福音書の物語が私たちに伝えていることは、「神は私たちの死に際しても勝利を収められる」ということです。「死」は、どうにもならない現実でありつつも、なお神様の手の中で起こる現実であるということです。

 「信じる」ということは、「神様を勘定に入れて生きる」ということであります。キリストの「恐れるな」という言葉は、私たちが人生の危機に遭遇するとき、私たちに向かって発せられる励ましのみ言葉です。

 新しい生き方を見つけ、「安心して生きなさい」というみ言葉をいただいた女性のように、私たちも「主イエスの服にそっと触れる」ほどの信仰を持って生きたいと思います

 

bokushi_01.jpg聖霊降臨後第9主日 マルコによる福音書6章16a節

       「平和を信じて」

  最近は、夜空に星を探すなどということも滅多にありませんが、この夏休みに、特に空気のきれいな山などにお出かけになったとき、もしかしたら旅の宿で、夜空に夏の星座を探すというような、優雅な時間を持つときがあるかもしれません。

 私が学生時代お世話になった大学の先生は、長野県に別荘を持っておられましたので、私は学生時代、よくその先生の別荘に友人たちと一緒に遊びに行って、高原の澄んだ空気の中、星をながめることがあったのを思い出します。長野の高原で見る夜空は、普段の町中の空とは全く違って、一面が星で埋め尽くされていたのを印象深く思い出します。「天の川」は、本当に天空の川のように見えました。しかし、「オリオン座」や「大熊座」といった多くの星座は、どう目をこらして見ても、なかなか「人」や「動物」のかたちには見えてはきませんでした。昔の人は、よくこんな沢山の星と星とを結んで、様々なものの姿をそこに発見することができたものだと関心してしまいます。

 星座の起源は、一説によれば古代ギリシャにあると言われております。

 ある人が、ギリシャのアテネにあるパルテノンで星を見ていたとき、どうしてそんな星だらけの空が、クマやライオンや白鳥に見えるのだろうかと考えたそうです。その人は1時間ほども星空を見ながら考えて、そして突然理由が分かったと言います。それはつまり、昔はテレビがなかったから、自動車も飛行機もCDもコンビニもなかったからだと言うんです。つまり、あるのは自分の脳みそとほんの少しの情報だけという環境だったから、だから主役は想像力と推理力であり、夜空の星の配置が、古代の人たちが持っていた想像力と推理力を刺激した。だから何でもそこに見えたのだと、その人は結論づけています。

 なるほど、情報の海におぼれかかっているような現代人である私たちが、どんなに夜空をながめてみても、そこにはクマもライオンも白鳥も見つからないわけです。私たちは、はじめから「そこに何があるのか」を知っているから、ありもしないクマやライオンや白鳥は見えないのです。

 そう考えますと、私たち現代人は何と「つまらない」世界を生きているのだろう、と再び考えさせられてしまいます。

 折しも今週の木曜日、86日は広島への原爆投下から64年目の記念日でもあります。特に戦争を知らない世代に属する私のような者が、戦争の本当の姿を追体験するには、痛みを持つ他者の心と、自分の心を重ねるために豊かな感受性と想像力が問われます。日本人である私たちは、あの戦争でアジアの隣人たちがどれほど苦しんだかということへの想像力が問われています。また、原子爆弾を積んだ爆撃機エノラゲイの出撃を命じた当時のアメリカ大統領には、その作戦によって奪われる命の多くは、小さな子供やお年寄りを中心とした社会的弱者の命であるということを認識する想像力が、決定的に欠けていたでしょう。

 想像力の欠如は、時として大きな悲劇や罪を生み出すと言わなければならないでしょう。

 

 さて、本日私たちに与えられております福音書の日課は、主イエスが故郷ナザレに帰られた時のことを記しています。イエスは、故郷ナザレで安息日に行われていたユダヤ教の礼拝を守っています。主イエスは、成人した男子ならば誰でも求められた「旧約聖書の朗読と解説」の奉仕をされました。その会堂に集まっていた人々は、イエスの「お話」の内容と、その知恵の深さに驚愕いたします。またイエスが各地で行った活動の評判と合わせて、人々は口々に言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」。

 ナザレの人々は、昔からイエスのことをよく知っていました。イエスが子供の頃から、よく知っていたのです。だからこそ、誰もが知っている「あの大工」が、しばらく故郷を留守にしてから戻ってくると、「すばらしい言葉」を「偉大な指導者」として、「キリスト」としてのべ伝えているということに納得がいかなかったのです。「旧約聖書の言葉を驚くべき洞察力で解き明かしている」ということを素直に受け取ることができなかったのです。彼らは、そこで耳にした「良い知らせ」「すばらしい言葉の数々」を、素直に喜ぶことはできませんでした。彼らは、主イエスの言葉を聞く前から、イエスが語られる内容など「分かり切ったこと」だと思いこんでいました。「子供の頃からよく知っている、あのマリヤの息子である大工がしゃべる言葉」だと。彼らは、彼ら自身があらかじめ持っている貧弱な知識に邪魔をされて、「いいもの」「素晴らしいもの」「素直な感動」といったものを感じ取ることができなかったのです。

 「この人は、ただの大工ではないか。」

 このばあいの「大工」と訳されるギリシャ語の単語は、「テクトーン」という単語ですが、意味は「木工に従事する人」「大工」「指物師」「船大工」「あらゆる種類の職人」「労働者」はては「作曲家」「作家」と、実に多様な意味を持つ単語です。ローマ時代に、辺境の地であったガリラヤのナザレで就くことができる職業として、「作曲家」や「作家」という選択肢はなかったでしょうから、やはり主イエスが父親ヨセフから受け継いだ職業は、「大工」「指物師」「船大工」といった職人や労働者としての職業であったはずです。

 「イエスは私たちと同じただの職人・労働者ではないか!」「並はずれて優秀であろうはずはない!」

 聖書が私たちに教えていることは、キリストは私たちと同じ「人」であり、同時に「神」であるという「二重性の現実認識」です。ただの人が同時に神でもある!つまらない「ただの人」は、同時にすばらしい「救い主」でもある。この聖書的な真実が私たちに教えようとすることとは、つまり私たちが常々追い求めている「美しいこと」や「愛」や「希望」や「救い」といったものは、すべて「まだ見ぬ彼方」にあるものではなく、むしろ私たちをとりまく「日常的なもの」のなかにこそ隠されているということであります。

 私たちが、自分の人生を嘆き、そこには何もいいものを見出すことができないと考えるとき、私たちはもう一度、様々な先入観や余計な知識を取り払ってから現実と向き合うべきでしょう。

 主イエスは言われました「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。先入観や乏しい知識は、時に現実を見えなくするものです。

 澄み切った星空に、ただの光の点々を見るのか、それとも躍動的な人の姿や動物たちの姿を見るのか。自分の人生の歩みに、不平不満の数々を見るのか、それとも「生かされて」「与えられて」いる数々の恵みの痕跡を見るのか。それは私たち次第なのです。

 私たちの人生には、私たちをこの世界へと押し出し、私たちと共に歩いて下さる神様がおられる。このことを見極めるための信仰の目をいただきたい。そう心から願うものです。

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日本福音ルーテル雪ヶ谷教会{1924年宣教開始}

                    大田区東雪谷3-24-10  ☎03-3729-0578 

                                                    FAX050-3515-4849 

{復活後第3主日礼拝}牧師:田島靖則 代議員:高橋真一・御厨勝則

2009年5月3日 No.18  礼拝1045より 司式:田島靖則牧師

  

前奏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (着席)

讃美歌・・・教会讃美歌277番・・・・・・・・・・  (着席)

式文・・・・・1ページより

1日課:使徒言行録 42333(新約220ページ

2日課:ヨハネの手紙Ⅰ 312(新約P.443

福音書:ヨハネによる福音書 211519(新約P.211(起立

讃美歌・・・教会讃美歌365番・・・・・・・・・・・ (着席)

説教・・・「わたしの羊を」 田島靖則 牧師 

讃美歌・・・教会讃美歌422

信仰告白・・・使徒信条・・・・・・・式文4ページ 

奉献(献金)

讃美歌・・・教会讃美歌499番・・・・・・・・・・・ (起立

祝福・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  起立

アーメン三唱・・・・・・・・・・・・・・・・・・  起立

後奏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  (着席)

 

   {礼拝当番}今週・・・(聖書)佐藤眞紀子/(祈り)桑原真実

            次週・・・(聖書)御厨勝則/(祈り)高橋健三

    {主日礼拝奏楽}今週:御厨美代子/次週:高橋 恵

02_hitsuji1.jpgのサムネール画像のサムネール画像       保護者礼拝奏楽}お休み

    {子どもの教会}今週:田島奈織美

            次週:大牧正子

 

 

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{本日の活動}

*礼拝後、CC教師会、定例役員会

 

{今週の活動:教会}

*7日(木)19002000 英語聖書研究会

 

{今週の活動:幼稚園}

*8日(金)930〜 保護者の会総会(礼拝堂)

    

{今後の教会・幼稚園行事}

5/10(日)母の日礼拝、ミニバザー、幼稚園運営委員会

5/17(日)復活後第5主日、聖書研究会・女性会

5/24(日)昇天主日、1200〜 CC野外礼拝

5/31(日)聖霊降臨祭、宣教を考える勉強会

6/7(日)三位一体主日、定例役員会

6/11(木)〜12(金)幼稚園宿泊保育(奥多摩福音の家)

6/14(日)聖霊降臨後第2主日、CC教師会

 

 

 

      {幼稚園保護者礼拝}

 

             お休み

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 {お知らせ}

  *乙守ミチ子姉は、今年のお誕生日で喜寿を迎えられます。おめでとうございます。

  *小川鉄穂兄が『私の嬉遊曲』という自伝エッセイを出版されました。

   掲示板の前にあります。手にとってご覧下さい(貸し出し可能です)。

 

 *「第29回教会音楽祭」は、621日(日)15001700にカトリック東京カテド

  ラル聖マリア大聖堂で行われます。入場無料です。

 

 {兄弟姉妹のために祈りましょう}

 5月18日に入院される堀口まひろ兄のために

 雪ヶ谷教会がさらに多くの兄弟姉妹を迎えることができるように

   

*週報に記載する情報をお持ちの方は、牧師までお知らせください。 

 

 

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{次週主日礼拝}

 510日 母の日礼拝

 聖書:使徒言行録 82640

    ヨハネの手紙Ⅰ 31824

    ヨハネによる福音書 15110

 讃美歌:2144/ 510/ 2157 / 546

              (すべて、教団讃美歌

 説教:「何でも願いなさい」  田島靖則 牧師

 

 

 

 


 

 

 

 

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定 例 集 会 案 内

 

こどもの教会

 

日曜日

 

930

 

園児・小・中学生のための礼拝。

卒園児も多く出席しています。

 

主日礼拝

 

日曜日

 

1045より

教会における

     最も主要な礼拝です。

女性会例会・

聖書研究会

 

3日曜

 

礼拝後

聖書研究会は、どなたでも参加できる集会です。

 

幼稚園

  保護者礼拝

 

保育期間

2・第4

日曜日

 

910

 〜925

園児保護者の皆様とともに、園におけるキリスト教教育・保育で使用される「こども讃美歌」や「聖書のお話」を用いて礼拝します。

 

英語

バイブルクラス

 

木曜日

 

1900

 〜2000

 

邦訳と英訳の聖書を用いながら、聖書研究のクラスを開講します。

 

キリスト教

   入門講座

 

希望

により

随時

 

キリスト教に興味をお持ちの方や洗礼をお考えの方のために、キリスト教主義大学の講義で使用される教材などを用いて学びます。

 

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