礼拝説教(田島靖則牧師):「平和を信じて」     2009年7月26日(日)

bokushi_01.jpg聖霊降臨後第9主日 マルコによる福音書6章16a節

       「平和を信じて」

  最近は、夜空に星を探すなどということも滅多にありませんが、この夏休みに、特に空気のきれいな山などにお出かけになったとき、もしかしたら旅の宿で、夜空に夏の星座を探すというような、優雅な時間を持つときがあるかもしれません。

 私が学生時代お世話になった大学の先生は、長野県に別荘を持っておられましたので、私は学生時代、よくその先生の別荘に友人たちと一緒に遊びに行って、高原の澄んだ空気の中、星をながめることがあったのを思い出します。長野の高原で見る夜空は、普段の町中の空とは全く違って、一面が星で埋め尽くされていたのを印象深く思い出します。「天の川」は、本当に天空の川のように見えました。しかし、「オリオン座」や「大熊座」といった多くの星座は、どう目をこらして見ても、なかなか「人」や「動物」のかたちには見えてはきませんでした。昔の人は、よくこんな沢山の星と星とを結んで、様々なものの姿をそこに発見することができたものだと関心してしまいます。

 星座の起源は、一説によれば古代ギリシャにあると言われております。

 ある人が、ギリシャのアテネにあるパルテノンで星を見ていたとき、どうしてそんな星だらけの空が、クマやライオンや白鳥に見えるのだろうかと考えたそうです。その人は1時間ほども星空を見ながら考えて、そして突然理由が分かったと言います。それはつまり、昔はテレビがなかったから、自動車も飛行機もCDもコンビニもなかったからだと言うんです。つまり、あるのは自分の脳みそとほんの少しの情報だけという環境だったから、だから主役は想像力と推理力であり、夜空の星の配置が、古代の人たちが持っていた想像力と推理力を刺激した。だから何でもそこに見えたのだと、その人は結論づけています。

 なるほど、情報の海におぼれかかっているような現代人である私たちが、どんなに夜空をながめてみても、そこにはクマもライオンも白鳥も見つからないわけです。私たちは、はじめから「そこに何があるのか」を知っているから、ありもしないクマやライオンや白鳥は見えないのです。

 そう考えますと、私たち現代人は何と「つまらない」世界を生きているのだろう、と再び考えさせられてしまいます。

 折しも今週の木曜日、86日は広島への原爆投下から64年目の記念日でもあります。特に戦争を知らない世代に属する私のような者が、戦争の本当の姿を追体験するには、痛みを持つ他者の心と、自分の心を重ねるために豊かな感受性と想像力が問われます。日本人である私たちは、あの戦争でアジアの隣人たちがどれほど苦しんだかということへの想像力が問われています。また、原子爆弾を積んだ爆撃機エノラゲイの出撃を命じた当時のアメリカ大統領には、その作戦によって奪われる命の多くは、小さな子供やお年寄りを中心とした社会的弱者の命であるということを認識する想像力が、決定的に欠けていたでしょう。

 想像力の欠如は、時として大きな悲劇や罪を生み出すと言わなければならないでしょう。

 

 さて、本日私たちに与えられております福音書の日課は、主イエスが故郷ナザレに帰られた時のことを記しています。イエスは、故郷ナザレで安息日に行われていたユダヤ教の礼拝を守っています。主イエスは、成人した男子ならば誰でも求められた「旧約聖書の朗読と解説」の奉仕をされました。その会堂に集まっていた人々は、イエスの「お話」の内容と、その知恵の深さに驚愕いたします。またイエスが各地で行った活動の評判と合わせて、人々は口々に言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」。

 ナザレの人々は、昔からイエスのことをよく知っていました。イエスが子供の頃から、よく知っていたのです。だからこそ、誰もが知っている「あの大工」が、しばらく故郷を留守にしてから戻ってくると、「すばらしい言葉」を「偉大な指導者」として、「キリスト」としてのべ伝えているということに納得がいかなかったのです。「旧約聖書の言葉を驚くべき洞察力で解き明かしている」ということを素直に受け取ることができなかったのです。彼らは、そこで耳にした「良い知らせ」「すばらしい言葉の数々」を、素直に喜ぶことはできませんでした。彼らは、主イエスの言葉を聞く前から、イエスが語られる内容など「分かり切ったこと」だと思いこんでいました。「子供の頃からよく知っている、あのマリヤの息子である大工がしゃべる言葉」だと。彼らは、彼ら自身があらかじめ持っている貧弱な知識に邪魔をされて、「いいもの」「素晴らしいもの」「素直な感動」といったものを感じ取ることができなかったのです。

 「この人は、ただの大工ではないか。」

 このばあいの「大工」と訳されるギリシャ語の単語は、「テクトーン」という単語ですが、意味は「木工に従事する人」「大工」「指物師」「船大工」「あらゆる種類の職人」「労働者」はては「作曲家」「作家」と、実に多様な意味を持つ単語です。ローマ時代に、辺境の地であったガリラヤのナザレで就くことができる職業として、「作曲家」や「作家」という選択肢はなかったでしょうから、やはり主イエスが父親ヨセフから受け継いだ職業は、「大工」「指物師」「船大工」といった職人や労働者としての職業であったはずです。

 「イエスは私たちと同じただの職人・労働者ではないか!」「並はずれて優秀であろうはずはない!」

 聖書が私たちに教えていることは、キリストは私たちと同じ「人」であり、同時に「神」であるという「二重性の現実認識」です。ただの人が同時に神でもある!つまらない「ただの人」は、同時にすばらしい「救い主」でもある。この聖書的な真実が私たちに教えようとすることとは、つまり私たちが常々追い求めている「美しいこと」や「愛」や「希望」や「救い」といったものは、すべて「まだ見ぬ彼方」にあるものではなく、むしろ私たちをとりまく「日常的なもの」のなかにこそ隠されているということであります。

 私たちが、自分の人生を嘆き、そこには何もいいものを見出すことができないと考えるとき、私たちはもう一度、様々な先入観や余計な知識を取り払ってから現実と向き合うべきでしょう。

 主イエスは言われました「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。先入観や乏しい知識は、時に現実を見えなくするものです。

 澄み切った星空に、ただの光の点々を見るのか、それとも躍動的な人の姿や動物たちの姿を見るのか。自分の人生の歩みに、不平不満の数々を見るのか、それとも「生かされて」「与えられて」いる数々の恵みの痕跡を見るのか。それは私たち次第なのです。

 私たちの人生には、私たちをこの世界へと押し出し、私たちと共に歩いて下さる神様がおられる。このことを見極めるための信仰の目をいただきたい。そう心から願うものです。

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