礼拝説教(田島靖則牧師):「安心して行きなさい」 2009年8月2日(日)

bokushi_01.jpg  聖霊降臨後第8主日 マルコによる福音書5章2143節

                「安心して行きなさい」 

 

 映画「男はつらいよ」の寅さん役でお馴染みだった、俳優:渥美 清さんが亡くなったのが今から12年前の84日でした。熱狂的な寅さんファンというのはおられるようで、国民的アイドルだった寅さんへの思いを、どうしても断ち切れずに、本当に死んだ寅さんを「アイドル」にしてしまったという話を聞いたことがあります。どういうことかと申しますと、「男はつらいよ」の第49作の舞台として誘致運動を行っていた高知県安芸市のグループが、記念に「寅さん地蔵」なるものを作って、国道55号わきに安置したということでした。写真を見ると、あのフーテンの寅さんが、帽子をかぶり、背広を羽織って蓮の上に合唱して座っている姿で石造りの地蔵になっているのです。

 その写真を見た瞬間に、ひどく興ざめな思いがしましたのは、べつに私が仏教嫌いだからというわけではありません。フィクションであったにしろ、寅さんという人は、ままならない人生を、不完全なひとりの人間として精一杯生きている人だった。その「不完全な人間としての精一杯な生き様」に共感を集めていた寅さんが、悟りきった神様やお地蔵さんになってしまったら、それは「ウソ」ではないか?と素直に感じてしまうからなんです。

 こう考えますと、イスラエルの伝統のなかで、なぜ「偶像を刻んで、それを拝んではならない」と厳しく言われ続けたのかが、少し分かる気がいたします。「偶像」にはかならず「ウソ」がつきまとうということなんですね。

 これは蛇足かもしれませんが、渥美清さんはクリスチャンだった奥様の薦めで病床洗礼を受けられたとも聞いております。

 また、ある新聞の小さなコラム記事に、ギリシャのお葬式のことが書かれてあったことを思い出します。渥美清さんが亡くなった12年前の今頃、ギリシャのアテネでは国民的大女優と言われたアリギさんという人の葬儀が盛大に行われました。その時、霊柩車に乗せられた彼女が、教会から街頭に出てくると、集まった人たちが一斉に手をたたき始めたんだそうです。車に向かって大声で呼びかける人、腕を振り上げる人などがいて、葬儀らしくない光景が現れ、拍手はいつまでも鳴り止まなかったそうです。そこにいた日本人の新聞記者は、一体何事かと知人のギリシャ人に尋ねたところ、「神様のもとに行けるようになって良かった。お幸せにという意味で祝福を送っただけだ。」という答えが返ってきたそうです。

 民族的宗教観の違いと言ってしまえばそれまでですが、「愛する人の死」という悲しみの乗り越え方にも様々あるということです。

 さて、本日私たちに与えられた福音書の日課は、ふたつの奇跡物語を伝えております。 主イエスがガリラヤ湖のほとりにおられるとき、ユダヤ教社会で高い身分にある会堂長が、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と懇願いたします。この懇願を受けてイエスは会堂長と一緒に出かけて行かれます。すると、その道すがら大勢の群衆に紛れて、12年間も病気に悩んでいた女の人が、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエスの後ろからそっとその服に触れました。すると、彼女はすぐに出血が止まって病気がいやされたことを体に感じます。

 足を急がせていた主イエスは、すぐに立ち止まり「わたしの服に触れたのはだれか?」と言われます。その女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て、すべてをありのままに話しました。そして、イエスはお答えになります「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。

 そんなことをしているうちに、会堂長の家から使いの者が来て、幼い娘が息を引き取ったことを伝え、もう主イエスのご足労には及ばないと言います。しかし、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、人々の「もう手遅れだ」という声の中、そのような人々に対して「子供は眠っているのだ」と答えます。人々があざ笑うなかを、子供の両親と3人の弟子と一緒に子供の部屋へ入ったイエスは、横たわる子供に向かって「少女よ、起きなさい」と話しかけます。すると、少女は蘇生し、人々は驚きのあまり我を忘れたと聖書は記しています。

 このふたつの奇跡物語が私たちに伝えていることは、一見絶望的な現実があるけれども、そこで「あきらめてはいけない!」のだということであります。

 12年間も病気に悩んだ女性がいた。彼女は、まともにイエスに声をかけることすらできなかった。なぜなら、「病気の治らない汚れた者」として退けられることを恐れていたからです。現実に彼女は普段、事情を知るあらゆる人から「汚れた者」として扱われていました。だから彼女は、群衆に紛れて、そっと主イエスの服に触れる方法を選んだ。それが彼女の精いっぱいのやり方でした。そして、彼女は、12年間の悲願を現実のものとすることができました。「安心して行きなさい」という主イエスの言葉とともに。

 私たちに命を与え、私たちを生きる者としてくださった神様を信じるのならば、こんな自分も神様に望まれて生まれてきたのだと信じるのならば、どんな現実にぶち当たっても、キリストに、また神様に対して抱いている信頼を中断させてはいけない!と、福音書を通してキリストは語られます。

 私たち信仰者に与えられている希望は、「私たちの死」によってすら中断させられない希望です。いつか私たちは死ななければならない。それは紛れもない事実です。しかし、福音書の物語が私たちに伝えていることは、「神は私たちの死に際しても勝利を収められる」ということです。「死」は、どうにもならない現実でありつつも、なお神様の手の中で起こる現実であるということです。

 「信じる」ということは、「神様を勘定に入れて生きる」ということであります。キリストの「恐れるな」という言葉は、私たちが人生の危機に遭遇するとき、私たちに向かって発せられる励ましのみ言葉です。

 新しい生き方を見つけ、「安心して生きなさい」というみ言葉をいただいた女性のように、私たちも「主イエスの服にそっと触れる」ほどの信仰を持って生きたいと思います

 

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