bokushi_01.jpg降誕祭 ルカ13945(ルカ14655) 「たったひとりの理解者」 田島靖則

 

 1940(昭和15年)1231日午後1030分、NHK交響楽団の指揮者ヨーゼフ・ローゼンシュトックがベートーベン第九のラジオ生放送を行います。これを企画したのは当時のNHK職員だった三宅善三という人です。彼はその理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」と語っているそうですが、実際にはドイツにそうした習慣はなく、これは彼の勘違いであるといわれています。「年末は第九」という「季節の風物」が、勘違いから生まれたというのもおかしなお話しです。もっとも、日本で年末に第九が頻繁に演奏されるようになった背景には、終戦後オーケストラの収入が少なくて、楽団員の年末年始の生活に困る現状を改善したいという現実的な思惑もあったということです。

ちなみに、日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が歌われたのは、第1次世界大戦時の四国、徳島にあったドイツ人捕虜収容所でのこと。当時の収容所の監督であった軍人も、また地元の人達も、捕虜であるドイツ人たちを、人道的見地からも恥ずかしくない態度を持って扱ったときいています。

 だいぶ前ですが、サハリンに住んでいるひとりのドイツ人女性の話を、なにかの文章で読んだことを思い出します。ある時、日本人ジャーナリストがサハリンのユジノサハリンスクという北海道に近い町から、サハリンの中央部ティモフスクという町まで列車で旅をしたとき、列車が駅に着くと、ずきん姿の物売りの農婦たちが声をかけてきたそうです。そこで、アンナ・ベックさんという名の60才の女性と話をするうちに、彼女が第2次大戦の時に強制移住させられたドイツ人女性であることを知ります。そのジャーナリストが「町にドイツ人はたくさんいるの?」と尋ねると「もういない」と小声で答えたそうです。自分は少数民族の取材で北へ行くと告げると、「私も少数民族なのに・・・」と答え、続けて「ねえ、日本へ行けるとしたら、国境で私を助けてくれる?」と問いかけてきたそうです。そこでジャーナリスト氏は返事に窮していると、彼女は淋しそうに笑ったそうです。彼女が移住してきたのは1941年、独ソ戦開始の年、彼女はまだ4才だったということを話してくれたそうです。もっと詳しい話を聞こうとした時に、列車の出発の汽笛が鳴ります。そこでジャーナリスト氏は「ダスビダニア」と、ロシア語で別れを告げました。すると彼女は、近くの他の農婦に聞こえないように、こうささやいたそうです「アウフ・ビーダーゼエン」。ドイツ語で「さようなら」。

 今、私たちは今年のクリスマスをどんな気持ちで迎えようとしているでしょうか?私たちが、今抱えている悩みはどんな悩みでしょうか?私たちは、安心して自分の国に住み、日々の糧に事欠くこともない。それでも、自分が見捨てられた存在だと感じる人が、多くいるのは何故なのでしょうか?

 さて、クリスマスウイークの始まりである本日、私たちに与えられた福音書の日課は、イエスの母マリアと、その親類の年老いた女性エリサベトの姿を、私たちに伝えております。不思議な神の力によって、赤ちゃんが宿ったという、天使による受胎告知を受けた若きおとめマリアは、天使に向かって「お言葉どおり、この身になりますように」と答え、神様への信仰を告白しますが、しかし、それでマリアは落ちついて家でじっとしていることは出来なかったようです。 確かにマリアは、素朴な信仰と、こういった出来事を起こされた神様への信頼を持っておりましたが、しかし、目下の所このことを知っているのは「神様と私」だけ。自分のまわりで、今起こっている出来事に気付いている者は誰一人おりません。「マリアの淋しさ」「マリアの孤独感」を共有してくれる者は誰一人おりませんでした。 

 ところが実は、この「マリアの密かな苦しみ」を分かち合える人が、たった一人だけいたのです。それは、マリアの住むナザレ村からは23日ほどの道のりであるユダの町に住む、親戚の女性エリサベトでした。天使はマリアに向かってこう告げたのです「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6カ月になっている。神にできないことは何一つない」。

 マリアは神様のお心を信頼しながらも、人知れぬ大きな「淋しさ」「孤独」を抱えたままで、じっとしていることはできませんでした。それで、旅支度を整え、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と聖書は語ります。マリアにとって、このエリサベトという親類が、日頃から懇意にしている親戚であったのかどうか定かではありませんが、身分的に見れば、マリアはガリラヤのナザレという田舎町に住み、大工の青年のいいなずけであるということからも、社会的な身分が高かったわけでも、家柄を誇るような立場にあったわけでもないということが分かります。一方エリサベトは預言者と言われたモーセの兄、アロンの家の直系の子孫であり、神殿祭司のザカリアの妻という立場でありました。つまり、平民と貴族という身分の違いがあったということです。もしかしたら、口もきいたことのないような、そんな親戚関係だったかもしれません。しかし、今、マリアにとっては、この親類のエリサベトだけが、自分の身に起こっている出来事を理解し合うことのできる唯一の人間です。彼女は、急いで山里に向かい、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をしました。

 するとどうでしょう、もう十分に高齢であったエリサベトのおなかの中の赤ちゃんが、マリアの声を聞いて喜び踊ったのです。エリサベトはこのことを感じると、親類の娘マリアの身に起こっていることを理解し、即座にこう答えます「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。

 マリアが、この言葉を聞いて思わず涙ぐむ姿を想像できるでしょうか?「自分はひとりぼっちではない」「神様は、私を慰めるために、この人との出会いをつくってくださった」。クリスマスの物語は、一人の寄る辺なき身の女性に過酷な運命を課しましたが、その「まったくの孤独」と思われる身の上に、神様は「避けどころ」「避難所」を用意されるということを私たちに伝えようとしています。

 私たちも、ある時はマリアのようであり、またある時はエリサベトとしての役を担う者でもあります。

 マリアがめでたくヨセフと結ばれ、そして神様の愛を惜しみなく示し、良い知らせを私たちに伝え、そして私たちのために十字架に架かられたキリストがお生まれになった。クリスマスは、この喜びをしみじみと噛みしめる時です。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。

 この言葉を胸に刻み、クリスマスの喜びにあずかりましょう。

bokushi_01.jpg 聖霊降臨後第10主日 マルコ66b13

   「教え、伝え、奉仕する」

 

 「学生割引=学割」という制度は、大変ありがたいものです。かつて長い学生生活を経験した私のような者にとりましては、JR の学割料金や、映画館・美術館の学割入場券から、散髪屋の学割料金まで。とにかくあらゆる学割のお世話になってきたわけです。

 ちょっと前にテレビを見ていましたら、最近は新手の学割が登場しているというレポートが放送されていました。それは、「美容整形」の学割なんだそうです。「あなたも、進学や就職を前にしてちょっと美容整形してみませんか?」というようなキャッチフレーズで、学生向けの美容整形が格安料金でできるということでした。

 「進学や就職のための美容整形」とは一体何なのか?と思われるかもしれませんが、最近ではこれも決して珍しいことではないようです。以前新聞記事で「やっぱりあった容姿端麗テスト!」というような見出しで、ある会社の就職試験には、面接の評価基準のひとつとして「容姿」の善し悪しが見られているということが報告されておりました。つまり、「就職のための美容整形」が成立する土壌はやっぱりあるということです。また最近では、大学受験を控えた子供を持つ親が、子供を美容整形に連れていくというような話も耳にいたします。勉強面での努力の他に、受験の勝敗を分ける要因があるとすれば、それが面接試験の第一印象であるということのようです。 

 少し前なら「親からもらった大切な体に何ということを!」という反応もあったのでしょうが、今はその「親」が子を美容整形に連れていく時代なんですね。

 こうして「人間の持つ個性」というものは徐々に薄められていきます。クローン製造などを可能にする現代のバイオテクノロジーが、遺伝子レベルで未来の子供たちの容姿や能力を操作し始めることも、あながちないとは言えない状況になってきていると思うこの頃であります。

 さて、本日私たちに与えられました福音書の日課は、主イエスが12人の弟子たちを、宣教の旅に送り出すという記事を伝えております。イエスは「汚れた霊にとりつかれて苦しむ人=つまりは自分ではどうすることもできない精神的・心理的苦しみを抱えている人」や病気に悩む人たちに、「神様の慰めの知らせ=福音」を伝えるために、12人の弟子たちを各地の村々に派遣いたします。

 弟子たちにとりましては「プロの伝道者・牧会者」として、ここが勝負の為所であります。聞く耳を持たない人たちに、どうやってこの「キリストの良い知らせ」を伝えるのか?様々なしがらみに捕らわれている人に、どうやってそこからの解放を告げ知らせるのか?人々の目を引くような服装をするべきか?人々が目をとめるような持ち物を持っていくべきか?いざというときのために、たくさんのお金を用意するべきか?色めき立つ弟子たちを前にして主イエスは言われます。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」。

 「ただ杖一本持って、履物を履いたら出かけなさい!」とイエスは言われます。何と禁欲的な命令だろうか?と思われるかもしれません。なぜ主イエスは「杖一本と履物だけ」で行きなさいと言われたのでしょうか?禁欲的であることが神様のめがねにかなうことだからでしょうか?禁欲自体が、一つの積極的な修行なのでしょうか?

 そうではないでしょう。主イエスがここでおっしゃっていることは、あなたは様々なものの力を借りなくともよい。あなたはあなたのままで生きることができる。あなたは、そのままで勝負することができる!ということであります。

 マタイによる福音書の中で、「空の鳥や野の花がどうであるか見てごらんなさい!」とイエスは言われました。

 「あなたは杖一本と履物一足で十分に勝負できる!」このことを忘れてはならない!と主イエスは言われるのです。

 そうして、杖一本と履物一足だけの出で立ちで旅に出た弟子たちの「勝負の結果」はどうだったでしょう?

 紆余曲折、数しれない挫折を経て、弟子たちの蒔いた「福音の種」は、2000年経った今、世界中のキリスト教会を通して私たちを支え、励まし、癒す力となって実を結んでいます。

 私たちの教会は、「たった一本の杖と一足の履物」から始まったのです。

 この私たちだって「杖一本と履物だけ」で勝負できる。

 なぜならば、私たちを人生の旅に送り出してくださった神様が、私たちの「後ろ盾」であるとキリストは言われるのですから。

 私たちはしばしば「徒手空拳」で人生の荒波をかき分けて生きているように思います。

 しかし私たちには、「杖一本と履物一足」に加えて必要な様々なもの、様々な協力者が与えられています。

 私たちもあの弟子たちのように、「不足は補われること」を信じて、日々生きる者になりたいと思います。

 

bokushi_01.jpg  聖霊降臨後第8主日 マルコによる福音書5章2143節

                「安心して行きなさい」 

 

 映画「男はつらいよ」の寅さん役でお馴染みだった、俳優:渥美 清さんが亡くなったのが今から12年前の84日でした。熱狂的な寅さんファンというのはおられるようで、国民的アイドルだった寅さんへの思いを、どうしても断ち切れずに、本当に死んだ寅さんを「アイドル」にしてしまったという話を聞いたことがあります。どういうことかと申しますと、「男はつらいよ」の第49作の舞台として誘致運動を行っていた高知県安芸市のグループが、記念に「寅さん地蔵」なるものを作って、国道55号わきに安置したということでした。写真を見ると、あのフーテンの寅さんが、帽子をかぶり、背広を羽織って蓮の上に合唱して座っている姿で石造りの地蔵になっているのです。

 その写真を見た瞬間に、ひどく興ざめな思いがしましたのは、べつに私が仏教嫌いだからというわけではありません。フィクションであったにしろ、寅さんという人は、ままならない人生を、不完全なひとりの人間として精一杯生きている人だった。その「不完全な人間としての精一杯な生き様」に共感を集めていた寅さんが、悟りきった神様やお地蔵さんになってしまったら、それは「ウソ」ではないか?と素直に感じてしまうからなんです。

 こう考えますと、イスラエルの伝統のなかで、なぜ「偶像を刻んで、それを拝んではならない」と厳しく言われ続けたのかが、少し分かる気がいたします。「偶像」にはかならず「ウソ」がつきまとうということなんですね。

 これは蛇足かもしれませんが、渥美清さんはクリスチャンだった奥様の薦めで病床洗礼を受けられたとも聞いております。

 また、ある新聞の小さなコラム記事に、ギリシャのお葬式のことが書かれてあったことを思い出します。渥美清さんが亡くなった12年前の今頃、ギリシャのアテネでは国民的大女優と言われたアリギさんという人の葬儀が盛大に行われました。その時、霊柩車に乗せられた彼女が、教会から街頭に出てくると、集まった人たちが一斉に手をたたき始めたんだそうです。車に向かって大声で呼びかける人、腕を振り上げる人などがいて、葬儀らしくない光景が現れ、拍手はいつまでも鳴り止まなかったそうです。そこにいた日本人の新聞記者は、一体何事かと知人のギリシャ人に尋ねたところ、「神様のもとに行けるようになって良かった。お幸せにという意味で祝福を送っただけだ。」という答えが返ってきたそうです。

 民族的宗教観の違いと言ってしまえばそれまでですが、「愛する人の死」という悲しみの乗り越え方にも様々あるということです。

 さて、本日私たちに与えられた福音書の日課は、ふたつの奇跡物語を伝えております。 主イエスがガリラヤ湖のほとりにおられるとき、ユダヤ教社会で高い身分にある会堂長が、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と懇願いたします。この懇願を受けてイエスは会堂長と一緒に出かけて行かれます。すると、その道すがら大勢の群衆に紛れて、12年間も病気に悩んでいた女の人が、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエスの後ろからそっとその服に触れました。すると、彼女はすぐに出血が止まって病気がいやされたことを体に感じます。

 足を急がせていた主イエスは、すぐに立ち止まり「わたしの服に触れたのはだれか?」と言われます。その女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て、すべてをありのままに話しました。そして、イエスはお答えになります「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。

 そんなことをしているうちに、会堂長の家から使いの者が来て、幼い娘が息を引き取ったことを伝え、もう主イエスのご足労には及ばないと言います。しかし、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、人々の「もう手遅れだ」という声の中、そのような人々に対して「子供は眠っているのだ」と答えます。人々があざ笑うなかを、子供の両親と3人の弟子と一緒に子供の部屋へ入ったイエスは、横たわる子供に向かって「少女よ、起きなさい」と話しかけます。すると、少女は蘇生し、人々は驚きのあまり我を忘れたと聖書は記しています。

 このふたつの奇跡物語が私たちに伝えていることは、一見絶望的な現実があるけれども、そこで「あきらめてはいけない!」のだということであります。

 12年間も病気に悩んだ女性がいた。彼女は、まともにイエスに声をかけることすらできなかった。なぜなら、「病気の治らない汚れた者」として退けられることを恐れていたからです。現実に彼女は普段、事情を知るあらゆる人から「汚れた者」として扱われていました。だから彼女は、群衆に紛れて、そっと主イエスの服に触れる方法を選んだ。それが彼女の精いっぱいのやり方でした。そして、彼女は、12年間の悲願を現実のものとすることができました。「安心して行きなさい」という主イエスの言葉とともに。

 私たちに命を与え、私たちを生きる者としてくださった神様を信じるのならば、こんな自分も神様に望まれて生まれてきたのだと信じるのならば、どんな現実にぶち当たっても、キリストに、また神様に対して抱いている信頼を中断させてはいけない!と、福音書を通してキリストは語られます。

 私たち信仰者に与えられている希望は、「私たちの死」によってすら中断させられない希望です。いつか私たちは死ななければならない。それは紛れもない事実です。しかし、福音書の物語が私たちに伝えていることは、「神は私たちの死に際しても勝利を収められる」ということです。「死」は、どうにもならない現実でありつつも、なお神様の手の中で起こる現実であるということです。

 「信じる」ということは、「神様を勘定に入れて生きる」ということであります。キリストの「恐れるな」という言葉は、私たちが人生の危機に遭遇するとき、私たちに向かって発せられる励ましのみ言葉です。

 新しい生き方を見つけ、「安心して生きなさい」というみ言葉をいただいた女性のように、私たちも「主イエスの服にそっと触れる」ほどの信仰を持って生きたいと思います

 

bokushi_01.jpg聖霊降臨後第9主日 マルコによる福音書6章16a節

       「平和を信じて」

  最近は、夜空に星を探すなどということも滅多にありませんが、この夏休みに、特に空気のきれいな山などにお出かけになったとき、もしかしたら旅の宿で、夜空に夏の星座を探すというような、優雅な時間を持つときがあるかもしれません。

 私が学生時代お世話になった大学の先生は、長野県に別荘を持っておられましたので、私は学生時代、よくその先生の別荘に友人たちと一緒に遊びに行って、高原の澄んだ空気の中、星をながめることがあったのを思い出します。長野の高原で見る夜空は、普段の町中の空とは全く違って、一面が星で埋め尽くされていたのを印象深く思い出します。「天の川」は、本当に天空の川のように見えました。しかし、「オリオン座」や「大熊座」といった多くの星座は、どう目をこらして見ても、なかなか「人」や「動物」のかたちには見えてはきませんでした。昔の人は、よくこんな沢山の星と星とを結んで、様々なものの姿をそこに発見することができたものだと関心してしまいます。

 星座の起源は、一説によれば古代ギリシャにあると言われております。

 ある人が、ギリシャのアテネにあるパルテノンで星を見ていたとき、どうしてそんな星だらけの空が、クマやライオンや白鳥に見えるのだろうかと考えたそうです。その人は1時間ほども星空を見ながら考えて、そして突然理由が分かったと言います。それはつまり、昔はテレビがなかったから、自動車も飛行機もCDもコンビニもなかったからだと言うんです。つまり、あるのは自分の脳みそとほんの少しの情報だけという環境だったから、だから主役は想像力と推理力であり、夜空の星の配置が、古代の人たちが持っていた想像力と推理力を刺激した。だから何でもそこに見えたのだと、その人は結論づけています。

 なるほど、情報の海におぼれかかっているような現代人である私たちが、どんなに夜空をながめてみても、そこにはクマもライオンも白鳥も見つからないわけです。私たちは、はじめから「そこに何があるのか」を知っているから、ありもしないクマやライオンや白鳥は見えないのです。

 そう考えますと、私たち現代人は何と「つまらない」世界を生きているのだろう、と再び考えさせられてしまいます。

 折しも今週の木曜日、86日は広島への原爆投下から64年目の記念日でもあります。特に戦争を知らない世代に属する私のような者が、戦争の本当の姿を追体験するには、痛みを持つ他者の心と、自分の心を重ねるために豊かな感受性と想像力が問われます。日本人である私たちは、あの戦争でアジアの隣人たちがどれほど苦しんだかということへの想像力が問われています。また、原子爆弾を積んだ爆撃機エノラゲイの出撃を命じた当時のアメリカ大統領には、その作戦によって奪われる命の多くは、小さな子供やお年寄りを中心とした社会的弱者の命であるということを認識する想像力が、決定的に欠けていたでしょう。

 想像力の欠如は、時として大きな悲劇や罪を生み出すと言わなければならないでしょう。

 

 さて、本日私たちに与えられております福音書の日課は、主イエスが故郷ナザレに帰られた時のことを記しています。イエスは、故郷ナザレで安息日に行われていたユダヤ教の礼拝を守っています。主イエスは、成人した男子ならば誰でも求められた「旧約聖書の朗読と解説」の奉仕をされました。その会堂に集まっていた人々は、イエスの「お話」の内容と、その知恵の深さに驚愕いたします。またイエスが各地で行った活動の評判と合わせて、人々は口々に言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」。

 ナザレの人々は、昔からイエスのことをよく知っていました。イエスが子供の頃から、よく知っていたのです。だからこそ、誰もが知っている「あの大工」が、しばらく故郷を留守にしてから戻ってくると、「すばらしい言葉」を「偉大な指導者」として、「キリスト」としてのべ伝えているということに納得がいかなかったのです。「旧約聖書の言葉を驚くべき洞察力で解き明かしている」ということを素直に受け取ることができなかったのです。彼らは、そこで耳にした「良い知らせ」「すばらしい言葉の数々」を、素直に喜ぶことはできませんでした。彼らは、主イエスの言葉を聞く前から、イエスが語られる内容など「分かり切ったこと」だと思いこんでいました。「子供の頃からよく知っている、あのマリヤの息子である大工がしゃべる言葉」だと。彼らは、彼ら自身があらかじめ持っている貧弱な知識に邪魔をされて、「いいもの」「素晴らしいもの」「素直な感動」といったものを感じ取ることができなかったのです。

 「この人は、ただの大工ではないか。」

 このばあいの「大工」と訳されるギリシャ語の単語は、「テクトーン」という単語ですが、意味は「木工に従事する人」「大工」「指物師」「船大工」「あらゆる種類の職人」「労働者」はては「作曲家」「作家」と、実に多様な意味を持つ単語です。ローマ時代に、辺境の地であったガリラヤのナザレで就くことができる職業として、「作曲家」や「作家」という選択肢はなかったでしょうから、やはり主イエスが父親ヨセフから受け継いだ職業は、「大工」「指物師」「船大工」といった職人や労働者としての職業であったはずです。

 「イエスは私たちと同じただの職人・労働者ではないか!」「並はずれて優秀であろうはずはない!」

 聖書が私たちに教えていることは、キリストは私たちと同じ「人」であり、同時に「神」であるという「二重性の現実認識」です。ただの人が同時に神でもある!つまらない「ただの人」は、同時にすばらしい「救い主」でもある。この聖書的な真実が私たちに教えようとすることとは、つまり私たちが常々追い求めている「美しいこと」や「愛」や「希望」や「救い」といったものは、すべて「まだ見ぬ彼方」にあるものではなく、むしろ私たちをとりまく「日常的なもの」のなかにこそ隠されているということであります。

 私たちが、自分の人生を嘆き、そこには何もいいものを見出すことができないと考えるとき、私たちはもう一度、様々な先入観や余計な知識を取り払ってから現実と向き合うべきでしょう。

 主イエスは言われました「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。先入観や乏しい知識は、時に現実を見えなくするものです。

 澄み切った星空に、ただの光の点々を見るのか、それとも躍動的な人の姿や動物たちの姿を見るのか。自分の人生の歩みに、不平不満の数々を見るのか、それとも「生かされて」「与えられて」いる数々の恵みの痕跡を見るのか。それは私たち次第なのです。

 私たちの人生には、私たちをこの世界へと押し出し、私たちと共に歩いて下さる神様がおられる。このことを見極めるための信仰の目をいただきたい。そう心から願うものです。

              2009

        月報  ゆきがや 5月号

                                   日本福音ルーテル雪ヶ谷教会

                               145-0065 東京都大田区東雪谷3-24-10

                                                   発行人 田島靖則

 

<5月の礼拝説教から>

{復活後第5主日礼拝}

ヨハネによる福音書  151117節 「選んだのはわたし」 田島靖則

 


 

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 これはキリストの言葉でありますが、もともとおそらくイエス様の時代に一般に流布していた格言のひとつであったと考えられています。しかし、この言葉が、一般的な格言の一つであったとしても、この言葉を実行に移した人、その本人の口からこの言葉が語られるとき、この格言の重みやリアリティーを、ひしひしと感じないわけにはいきません。キリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という言葉を語り、そしてその言葉を実行した希有な存在であり、そして何よりも、そのキリストの語る「友」というのが、他ならぬ「今を生きるこの私たち」のことであるという点において、歴史上の「友のために死んださまざまな人たち」も、「この私」とのかかわりにおいては、キリストとは一線を画するのだと、そう聖書は語っているのです。

 「友のために自分の命を捨てること」。この言葉を聞いて、そのような内容の小説があったということを思い出された人もおられるかもしれません。私の場合、その小説とは、中学の国語の教科書のなかで初めに出会ったと記憶しておりますが、これが太宰治の「走れメロス」という作品です。

 太宰は、もともとあったギリシャ・ローマの古い伝説にヒントを得て、この「走れメロス」を仕上げたと言われていますが、この小説「走れメロス」の中には多くのキリスト教的な痕跡を見ることができます。太宰 治が、一時期キリスト教の思想に接近し、その痕跡がいくつかの作品に反映されているということは知られていることでありますが、この「走れメロス」も例外ではないようです。

 田舎で羊飼いをしていたメロスは、シラクスの街に出てきたときに、王様が人の心を疑うあまり、多くの市民を殺しているという話を聞きます。純朴な田舎の羊飼いメロスは、その足で王宮に入り、直接王様に意見しますが、たちまち捕まって死刑を宣告されてしまいます。ところが、実はメロスには一人の妹がいて、その妹の結婚準備のために街に買い物に来ていたところでしたから、メロスは死刑を3日間待ってくれるよう王様に懇願し、そのかわりに人質として竹馬の友セリヌンティウスを留め置くようにと願います。王様は「人間は信じられない」という持論を証明するためにも、この提案に賛成します。

 妹の結婚式を済ませて、シラクスの街に向かうメロスを、次から次へと困難が襲います。メロスは、大雨で橋が流された大河に飛び込み、力の限り泳いでなんとか対岸に泳ぎ着きます。すると、王様が差し向けた山賊が待ちかまえており、なんとか山賊の3人を殴り倒して峠を駆け下りますが、ぎらぎらと照りつける太陽に目眩を感じ、とうとう倒れ込んでしまいます。全身が萎え果て、もはや芋虫ほどにも前進できないという状態で、朦朧とした意識のなかで、メロスは様々な言い訳を思いめぐらします。「私はこれほど努力したのだ。約束を破る心は微塵もなかった。」・・・そして、思いはさらに傾き「正義だの、真実だの、愛だの、考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかもばかばかしい。・・・」そう心の中で叫び、うとうととまどろんでしまいます。・・・すると、ふと耳に、潺々(せんせん)と水の流れる音が聞こえます。そっと頭をもたげ、見ると、岩の裂け目から滾々(こんこん)と、何か小さく(ささや)きながら清水が湧き出ています。水を両手で掬って、一くち飲み、ほうと長い溜息を出すと、夢から覚めたような気がします。「私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。」

 立ち上がり、道行く人をはねとばし、メロスは黒い風のように走ります。そして、刻限の日没ぎりぎりに、十字架につるされ、今まさに殺されかかっている友セリヌンティウスの足下に飛び込んで、しがみつきます。この様子を見ていた王、暴君ディオニスはとうとう告白します「真実とは、決して空虚な妄想ではなかった。」

 この小説「走れメロス」は、中学校の教科書に採用されるくらいで、実に単純明快なメッセージを発している物語です。しかし、本来私たちが「大切にすべき何か」とは、実は本当は「単純で明快な事柄である」。このことは、もうすでに遠い昔から、聖書を通して私たちに語り続けられていることであります。

 メロスが田舎の羊飼いであったことは、「わたしは良い羊飼いである」と言うキリストの言葉と無縁ではないでしょうし、メロスが倒れ込み、まどろんでいたとき、岩からわき出した清冽な湧き水は、エジプトを脱出し、荒れ野で水を求めてさまよったイスラエルの民を救うために、神様ご自身が岩の裂け目から水を湧き出させ、民はその水によって生きることができたという旧約聖書の故事が想定されているでしょう。

 さて、聖書に戻りましょう。キリストは言われます。

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

 キリストは私たちひとりひとりを「友」と呼んでくださる。私たちは「キリストの友」である。そう聖書は語ります。しかも、これは「ただの友達」とは違う。たとえば、人間同士がお互いを「友」と呼びあうまでになるには、お互いに自発的に相手を「友」と呼ぶにふさわしい資質を認め合うというプロセスが必要になるでしょう。そのために普通は少なからず共有する時間が必要です。一方が「友達」だと思っていても、もう一方は「友達」とは思っていない。そんな悲劇も起こるわけであります。

 ところが、キリストが私たちを「友」と呼ぶ場合、そのようなことは起こり得ないと聖書は語ります。なぜなら、私たちがキリストを友として選んだのではなく、キリストの方で私たちを、この私を「友」として選んでくれたからであると聖書は記しているからです。これは、いわゆる「ギブ アンド テイク」という相互利益の関係ではない。キリストが、神様が、一方的に私たちを、この私を「友」と思っていてくださるという、いわば「ギブ アンド ギブ」の、愛に基づいた「友情」によって結びついているという宣言なのです。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

 「あなたは私の友である。だからこそ、あなたが喜ぶことをわたしは望んでいる」・・・・・そうキリストは言われます。

 最後に、メロスという名前の由来に触れてみたいと思います。はっきりとしたことは分かりませんが、もし「メロス」がギリシャ語ならば、その意味は「身体の部分、器官」あるいは「木の大きな枝」という意味であり、実際に新約聖書のエフェソの信徒への手紙530に「わたしたちは、キリストのからだの一部なのです。」と書かれてあるこの「からだの一部」という単語こそ「メロス」なのであります。メロスは「キリストのからだの一部」という意味なんです。はたして太宰がそこまで意識してこのメロスという名を使ったかどうかは定かではありません。しかし、いずれにしましても、新約聖書的に言えば、間違いなく私たちはそれぞれ「ひとりのメロス」であるということになります。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

 私たちが、キリストの「友」であり、そして「ひとりのメロス」であるならば、私たちもキリストの愛に応えたい。

 力を失って、私たちが倒れている時には、キリストは「みことばの水」によって私たちを支えてくださいます。そして、力を受けて立ち上がった後は、私たちもまた「ひとりのメロス」として、「キリストのからだ」として行動したい。

 日々、私たちを「友」と呼んでくださる方の言葉に聞きましょう。「みことばの水」は、私たちの「萎えた心とからだ」をうるおす力であります。

<4月の会計報告>

礼拝献金

68,075

維持献金

233,000

特別献金

170,100

資産収入

 

他の収入

 

借入金

 

前月繰越金

117,026

収入合計

588,201

 

 

協力金

 

プール制負担金

 

特別協力金

 

支援金

 

主任牧師給与

313,200

福利負担金

52,210

聖壇費

3,486

伝道費

 

集会費

2,312

教育費

1,500

通信費

-290

消耗品費

8,750

旅費

770

光熱用水費

18,590

什器設備費

 

保険料

 

慶弔交際費

 

営繕費

6,919

雑費

105

建築積立繰出金

2,000

支出合計

409,552

仮払金

 

次月繰越金

178,649

 


 


*維持献金(4月)

 高橋真一、高橋恵、加藤定秀・三枝子

 鈴木やす、児島和子、内田威生子

 乙守ミチ子(4-5月)、渡部孝子、大牧正子

 佐藤眞紀子、田島靖則・奈織美、

 御厨勝則、御厨美代子・大山絵美、

 高橋健三、高橋要子、佐藤翠、佐藤友紀、

 今井光子、杉原大介・真理(1-4月) 

 渡辺映子、江本裕子

*特別献金

 感謝:藤原典子、佐藤眞紀子、伊津野忠里

    杉原大介・真理、高橋真一・恵

 誕生:乙守ミチ子

 イースター:堀口まひろ、無記名3名

 高橋真一、高橋恵、加藤定秀・三枝子

 鈴木やす、児島和子、内田威生子

 乙守ミチ子、渡部孝子、大牧正子

 佐藤眞紀子、田島靖則・奈織美、笠間多絵

 御厨勝則、御厨美代子、渡辺映子

 高橋健三、高橋要子、佐藤翠、小川鉄穂

 今井光子、杉原大介・真理、

 浅田邦夫・千栄子、渡辺映子、桑原真実

建築献金山本初江、児島和子

 

<4月の教勢>

集会/

12

19

26

 

平均

主日礼拝

28

32

24

37

 

30

洗足木曜

27

 

 

 

 

27

入園感謝

 

 

 

40

 

40

聖餐

26

 

 

 

 

26

CC

2

74

2

82

 

40

CC小中

39

66

44

38

 

44

保護者礼拝

 

21

 

 

 

21

聖研

 

 

18

 

 

18

女性会

 

 

16

 

 

16

英聖研

2

2

2

3

 

2

宣教勉強会

 

 

 

 

 

 

 


 

 <6月 教会・幼稚園予定表>


3日(水)

幼稚園花の日礼拝

7日(日)

三位一体主日

定例役員会

11日(木)

12日(金)

幼稚園宿泊保育

奥多摩福音の家

14日(日)

聖霊降臨後第2主日

17日(水)

幼稚園内科健診

18日(木)

 

幼稚園保護者の会講演会

21日(日)

父の日礼拝、CC教師会、

聖書研究会・女性会

25日(木)

27日(土)

東教区方策会議

(長野飯田、牧師出席)

28日(日)

聖霊降臨後第4主日、

幼稚園保護者礼拝

宣教を考える勉強会


01_monshou1.jpgのサムネール画像のサムネール画像                                       週報

日本福音ルーテル雪ヶ谷教会{1924年宣教開始}

                    大田区東雪谷3-24-10  ☎03-3729-0578 

                                                    FAX050-3515-4849 

{復活後第3主日礼拝}牧師:田島靖則 代議員:高橋真一・御厨勝則

2009年5月3日 No.18  礼拝1045より 司式:田島靖則牧師

  

前奏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (着席)

讃美歌・・・教会讃美歌277番・・・・・・・・・・  (着席)

式文・・・・・1ページより

1日課:使徒言行録 42333(新約220ページ

2日課:ヨハネの手紙Ⅰ 312(新約P.443

福音書:ヨハネによる福音書 211519(新約P.211(起立

讃美歌・・・教会讃美歌365番・・・・・・・・・・・ (着席)

説教・・・「わたしの羊を」 田島靖則 牧師 

讃美歌・・・教会讃美歌422

信仰告白・・・使徒信条・・・・・・・式文4ページ 

奉献(献金)

讃美歌・・・教会讃美歌499番・・・・・・・・・・・ (起立

祝福・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  起立

アーメン三唱・・・・・・・・・・・・・・・・・・  起立

後奏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  (着席)

 

   {礼拝当番}今週・・・(聖書)佐藤眞紀子/(祈り)桑原真実

            次週・・・(聖書)御厨勝則/(祈り)高橋健三

    {主日礼拝奏楽}今週:御厨美代子/次週:高橋 恵

02_hitsuji1.jpgのサムネール画像のサムネール画像       保護者礼拝奏楽}お休み

    {子どもの教会}今週:田島奈織美

            次週:大牧正子

 

 

 (1/4) 

 ---------------------------------------------------------------------------------------

 

{本日の活動}

*礼拝後、CC教師会、定例役員会

 

{今週の活動:教会}

*7日(木)19002000 英語聖書研究会

 

{今週の活動:幼稚園}

*8日(金)930〜 保護者の会総会(礼拝堂)

    

{今後の教会・幼稚園行事}

5/10(日)母の日礼拝、ミニバザー、幼稚園運営委員会

5/17(日)復活後第5主日、聖書研究会・女性会

5/24(日)昇天主日、1200〜 CC野外礼拝

5/31(日)聖霊降臨祭、宣教を考える勉強会

6/7(日)三位一体主日、定例役員会

6/11(木)〜12(金)幼稚園宿泊保育(奥多摩福音の家)

6/14(日)聖霊降臨後第2主日、CC教師会

 

 

 

      {幼稚園保護者礼拝}

 

             お休み

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(2/4)

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 {お知らせ}

  *乙守ミチ子姉は、今年のお誕生日で喜寿を迎えられます。おめでとうございます。

  *小川鉄穂兄が『私の嬉遊曲』という自伝エッセイを出版されました。

   掲示板の前にあります。手にとってご覧下さい(貸し出し可能です)。

 

 *「第29回教会音楽祭」は、621日(日)15001700にカトリック東京カテド

  ラル聖マリア大聖堂で行われます。入場無料です。

 

 {兄弟姉妹のために祈りましょう}

 5月18日に入院される堀口まひろ兄のために

 雪ヶ谷教会がさらに多くの兄弟姉妹を迎えることができるように

   

*週報に記載する情報をお持ちの方は、牧師までお知らせください。 

 

 

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{次週主日礼拝}

 510日 母の日礼拝

 聖書:使徒言行録 82640

    ヨハネの手紙Ⅰ 31824

    ヨハネによる福音書 15110

 讃美歌:2144/ 510/ 2157 / 546

              (すべて、教団讃美歌

 説教:「何でも願いなさい」  田島靖則 牧師

 

 

 

 


 

 

 

 

                              (3/4)

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05_budou1.jpg  

定 例 集 会 案 内

 

こどもの教会

 

日曜日

 

930

 

園児・小・中学生のための礼拝。

卒園児も多く出席しています。

 

主日礼拝

 

日曜日

 

1045より

教会における

     最も主要な礼拝です。

女性会例会・

聖書研究会

 

3日曜

 

礼拝後

聖書研究会は、どなたでも参加できる集会です。

 

幼稚園

  保護者礼拝

 

保育期間

2・第4

日曜日

 

910

 〜925

園児保護者の皆様とともに、園におけるキリスト教教育・保育で使用される「こども讃美歌」や「聖書のお話」を用いて礼拝します。

 

英語

バイブルクラス

 

木曜日

 

1900

 〜2000

 

邦訳と英訳の聖書を用いながら、聖書研究のクラスを開講します。

 

キリスト教

   入門講座

 

希望

により

随時

 

キリスト教に興味をお持ちの方や洗礼をお考えの方のために、キリスト教主義大学の講義で使用される教材などを用いて学びます。

 

06_AO1.jpg  

(4/4)

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              2009

        月報  ゆきがや 4月号

                                   日本福音ルーテル雪ヶ谷教会

                               145-0065 東京都大田区東雪谷3-24-10

                                                   発行人 田島靖則

 

<4月の礼拝説教から>

{復活祭礼拝}

ヨハネによる福音書  20118節 「悲しみの向こう側」 田島靖則

 


 

 

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」

 

 いうまでもなく、キリスト復活の一番目の証人は「女性」でした。4人の福音書記者は、復活の証人として4人の女性の名を挙げています。マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメ、ヨハナの4名です。

 キリスト教にとって、最も重要といって良い出来事「主イエスの受難と十字架そして復活」の出来事において、重要な役割を果たしたのは「男性」ではなく「女性」でした。2000年前のパレスチナで、女性は裁判で証人となる資格はないとされている存在でした。しかし、キリスト教で最も重要な出来事の証人として選ばれたのは、当時人々が「資格無し」と考えていた女性たちだったのです。

 キリストの受難に際して、12弟子をはじめとする男たちがイエスを誤解し、裏切り、否定し、あげくの果てに逃げ出したのとは対照的に、ベタニアではイエスに香油を注ぎ、大祭司カヤパの屋敷の中庭でペトロの正体を見破り、ローマ総督ピラトに向かって「あの正しい人を釈放するように」と進言したのも、ゴルゴタへの悲しみの道でイエスのために嘆き悲しんだのも、最後まで忠実に十字架の足下に付き添っていたのも、すべて女性たちでした。

 このことは、男女の平等に疑いを差し挟む余地のない今日では何の不思議もないことですが、2000年前のパレスチナのみならず、20世紀半ば以前まで世界中で支配的だった男性優位の価値観を根底から覆す、まさに価値の大逆転がこのイースターの記事には描かれております。

 

「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分

かりません。』」

 

 私たちの自然科学の常識に従えば、「死人の復活」などありはしないはずです。ですから、この聖書の復活の記事を否定するために、今までに様々な仮説が立てられました。まずは「遺体盗難説」です。福音書記者マタイは、祭司長たちとファリサイ派がポンテオ・ピラトに「弟子たちがイエスの遺体を盗み出す」可能性があることを示唆しています。しかし、そのようなことが実行できる可能性はほとんど無かったと考えて良いでしょう。警備は厳重でした。祭司長たちとファリサイ派の提言を受けて、墓石は封印され、番兵が置かれたのですから。当然、墓を封印する前に中の遺体を確認したに違いありません。

 次にある可能性は、マリアたちが「墓を間違えた」という説です。同じような墓が並んでおり、墓石に刻印があるわけでもありませんから、夜明け直後の薄暗い朝靄の中で、間違えて誰かの空っぽの墓を見たのではないかという仮説です。しかしこれもあり得ないでしょう。墓には番兵が付いていたはずですから、間違えることはあり得ません。

 米国の歴史学者ポール・L・マイヤーは、加えて面白い仮説を紹介しています。それが「レタス説」です。アリマタヤのヨセフの墓地には、レタスの畑があった。ところがイエスが葬られていると聞いた人々がぞろぞろやって来て、墓の前にあるレタス畑を踏み荒らすものだから、たまりかねて墓地を管理する園丁が、イエスの遺体をよそへ移してしまった。それを知らない人々は、墓が空っぽだと騒ぎ始めたのだという仮説です。滑稽でお粗末な仮説と思われるかもしれませんが、これは2世紀のキリスト教指導者テルトリアヌスも記録に残しているほど古典的な仮説なのです。しかしこれも、番兵の存在を考えれば不可能と判断するべきでしょう。

 科学的説明に基づくところでは、イエスはただ気絶していたとする「気絶説」があります。しかし、ローマの処刑法である長時間の十字架を経て生き残った者がいたという記録はなく、槍で脇腹を突かれたのであれば、その可能性はゼロに近いと言うべきでしょう。そして極めつけは「集団幻覚説」でしょう。確かに、精神医学的・心理学的にあり得ないことではありません。しかし、この仮説が困難なのは、時間的にも地理的にもばらばらに複数の人物が同じ幻覚を見ると言うことはまず考えられないというところにあります。

 ともあれ、様々な仮説が飛び出すほどに、「イエスの復活」は私たちに価値観の逆転を強いる出来事であります。

 

「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 マリヤの証言はこの一言でした。「わたしは主を見ました」。

 復活の出来事を合理化する試みは脇へ置いて、マリヤの「わたしは主を見ました」という言葉に聞きたいと思うのです。

 私たちもまたマリヤと同じように、「わたしは主を見ました」ということが許されています。それがこの「肉眼で」実現することではないでしょうが、私たちの心の目はキリストを見ることができます。「復活」の出来事は、私たちに価値の大逆転を求めているのです。私たちが持つべきは、暗闇の中でも光を見つけることのできる目です。

 どうか愛の神様が、私たちにそのような「素晴らしい目」を与えて下さいますように。

 

 

<3月の教勢>

集会/

8

15

22

29

平均

主日礼拝

25

22

25

29

24

25

卒園感謝

 

37

 

 

 

37

聖餐

25

 

 

 

 

25

CC

4

74

4

9

6

19

CC小中

15

18

24

14

21

18

保護者礼拝

 

 

 

 

 

 

聖研

 

 

19

 

 

19

女性会

 

 

16

 

 

16

英聖研

2

2

 

2

 

2

宣教勉強会

 

 

 

18

 

18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*維持献金(3月)

 高橋真一、高橋恵、加藤定秀・三枝子

 鈴木やす、児島和子(2-3月)、内田威生子

 乙守ミチ子、渡部孝子、大牧正子

 佐藤眞紀子、田島靖則・奈織美、

 御厨勝則、御厨美代子・大山絵美、

 堀口まひろ(4月)、高橋健三、高橋要子、

 佐藤翠(2-3月)、佐藤友紀(2-3月)

 今井光子(1-3月)、吉田紗和子(1-2月) 

 渡辺映子、浜口麻衣子(2-3月)、江本裕子

 桑原真実(1-4月)

*特別献金

 感謝:鈴木やす、伊津野忠里

 誕生:児島和子  土地会堂使用:幼稚園

 イースター:堀口まひろ、無記名

*建築献金:浅田邦夫・千栄子

 

 

 

 

<3月の会計報告>

礼拝献金

84,181

維持献金

266,500

特別献金

336,000

資産収入

24,125

他の収入

3,000

借入金

 

前月繰越金

166,091

収入合計

879,897

 

 

協力金

196,100

プール制負担金

 

特別協力金

17,775

支援金

 

主任牧師給与

313,200

福利負担金

112,120

聖壇費

 

伝道費

1,140

集会費

 

教育費

 

通信費

13,053

消耗品費

15,486

旅費

 

光熱用水費

34,906

什器設備費

2,887

保険料

33,470

慶弔交際費

2,500

営繕費

6,919

雑費

1,315

建築積立繰出金

12,000

支出合計

762,871

仮払金

 

次月繰越金

117,026


 

 

 

 

 

 <5月 教会・幼稚園予定表>


 

3日(日)

復活後第3主日

定例役員会、CC教師会

8日(金)

幼稚園保護者の会総会

10日(日)

母の日礼拝

ミニバザー、幼稚園運営委員会

15日(金)

幼稚園親子遠足

13日(金)

東教区牧師会

17日(日)

 

復活後第5主日

聖書研究会・女性会

18日(月)

幼稚園年中保育参観日

19日(火)

幼稚園年少保育参観日

22日(金)

幼稚園年長保育参観日

24日(日)

昇天主日

1200〜 CC野外礼拝

31日(日)

聖霊降臨祭

宣教を考える勉強会

 


 

 

<5月 礼拝奉仕担当表>

 

礼拝説教

主日礼拝

奏楽

保護者

礼拝奏楽

    礼 拝 当 番

  こどもの教会

聖書朗読

奉献の祈り

田島靖則

御厨美代子

お休み

佐藤眞紀子

桑原真実

田島奈織美

 

10

田島靖則

高橋 恵

お休み

御厨勝則

高橋健三

大牧正子

 

17

田島靖則

田島奈織美

お休み

高橋要子

乙守ミチ子

中学生

 

24

田島靖則

田島奈織美

田島奈織美

内田威生子

加藤定秀

田島靖則

 

31

田島靖則

佐藤 翠

お休み

大牧正子

加藤三枝子

江本裕子

 

 

<5月 礼拝で歌う讃美歌>

3日

 (教会讃美歌)

10

 (教団讃美歌)

17

 (教会讃美歌)

24

 (教会讃美歌)

31

 (教団讃美歌)

277

365

422

499

2144

510

2157

546

15714

279

420

501

126

112

151

502

187

492

183

541

 

<編集後記>

 

 木々の緑も日増しに濃くなる季節。桜の木をめぐってのカラスとの攻防戦はどうなったのかと気をもんでいらっしゃる方もおられるでしょう(いませんか?)。実はこの春は、カラスが巣作りに来なかったのです。去年、一昨年のあの苦渋に満ちた戦いは一体何だったのでしょうか?カラスが心変わりした理由がひとつ思い当たります。それは、去年旧園舎解体工事のために作りかけだったカラスの巣をなかなか取ることが出来ず、もう巣が完成に近づいた頃に、工事関係の方にお願いして巣を落としたことです。カラスは頭の良い鳥だといわれます。完成に近い巣を落とされた記憶からしっかり学習して、園庭の桜の木をあきらめたのでしょう。

 さて、次に来るのは「毛虫の難」です。今年は年に2回の害虫駆除をお願いする予定です。一昨年の運動会に、毛虫が降ってきたことに学んで、今年からは先手を打ちます。カラスも私たちも学習する生物として神様に造られたのです(?)。

 

 

              2009

        月報  ゆきがや 3月号

                                   日本福音ルーテル雪ヶ谷教会

                               145-0065 東京都大田区東雪谷3-24-10

                                                   発行人 田島靖則

 

<3月の礼拝説教から>

{四旬節第3主日礼拝}

ヨハネによる福音書 2章1322節 「イエスのパッシヨン」 田島靖則

 


 

皆様のなかにも、花粉症で悩んでおられる方も多いことと思われます。実は私も、かなり以前から花粉アレルギーでして、何とかならないものかと思いながら、ただこの季節が過ぎてくれることを待っています。

以前に、浜松医大の先生で高田明和さんという方が、アトピーや花粉症の増加について書かれている文章を読んだことがあります。高田先生によりますと、これらの現代病の原因はひとつには特定できないようですが、大きく分けて「ストレスの増加」と「行きすぎた清潔好き」によるものと考えられるそうです。実際に、最近の私たちの「清潔好き」は確かに度が過ぎていると言えるかもしれません。「抗菌ボールペン」「抗菌消しゴム」「抗菌靴下」に「抗菌手袋」、最近ではバスや電車に「抗菌素材のつり革」などもお目見えしているとも聞きますし、私たちが手で触れる物すべてが抗菌加工されるのは、もはや時間の問題かもしれません。これらの「清潔好き」の傾向は、実は「自然からの隔離」につながっていると言われます。スウェーデンには、スタイナー学校という「自然と共に生きること」を目標としている小学校があるそうですが、そこでは生徒たちに抗生物質を使用させず、ワクチン接種も最低限にしているということです。そのぶん、ハシカなどにかかる率は高いそうですが、近隣のふつうの小学校と「生徒がアトピーにかかる率」を比べてみると、3割ほど確率が低くなることが分かったそうです。この結果を発表した研究者は、細菌やウイルスの感染が、アトピーの発生を抑制しているのではないかと言っています。

つまり私たちは、病気にならないようにという様々な試みの結果、かえって別の病気にかかりやすくなっているという皮肉なめぐり合わせにあるということのようです。

 

さて、本日私たちに与えられました福音書の日課は、主イエスが神殿から商人たちを追い出すという、いわゆる「宮清め」の記事を伝えています。聖書にはこうあります。

『ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」』

これほど激しい主イエスの怒りの姿を伝えている箇所は、この「宮清め」の記事以外にはみあたりません。これは、一般に浸透しているキリスト教のイメージである「寛容」や「忍耐」といった事柄とは、およそかけ離れた出来事のように感じられます。

実はもともと、神殿で犠牲の供え物にする動物を売っているというのは、他ならぬ巡礼者への利便のためでした。旧約聖書に定められた「神殿への供え物の規定」に従おうとすれば、人々は遠くから羊や鳩などの動物を連れてこなければならず、その道中の面倒を思えば、神殿でそれらの動物が売られていることは、巡礼者にとっては都合の良いことだったはずです。また、エルサレム神殿では、献金についても「特殊な貨幣」でしか受け取らなかったことが知られています。つまり、神殿の中だけで通用する貨幣があったのです。ですから、巡礼者は神殿の前庭で、はじめに自分が持っているお金と、神殿のお金の両替を行いました。これは、ちょっと考えますと「両替屋の手数料収入」や、そこから発生する「神殿祭司へのリベート」などが思い浮かびますが、これは実はもともとパレスチナからエジプトに至る広範囲に散らばっていたユダヤ人たちが、巡礼の時にそれぞればらばらの貨幣を持ち込むことは避けられないために考えられた「工夫」でもあったのです。

そして、これらのことはすべて「神殿への供え物の規定」という「律法」を守るために整えられていたことでした。ですから、主イエスがここで怒りをあらわにされたのは、そういった取引の中に、何か「不正」があったからという結論にはなりません。「宮清め」つまり「神殿を清める」という言葉の中には、「聖なる空間での商取引」をとがめるような響きが感じられますが、主イエスの意図は、そういったところにはありませんでした。言い換えますと、これは「神殿内の商取引の粛正」ではなくて、むしろ「神殿そのものの粛正」だったのです。つまり、人々が神様とつながるただ一つの方法と信じていた「律法に従った礼拝」、それも「エルサレム神殿での礼拝」そのものに終止符を打つために、主イエスは鞭を使って、牛や羊たちを逃がしてやり、両替人の金を投げ捨てます。

神様の前に出たいと思うものは、遠い道のりをエルサレムまで旅する必要はない。神様に尋ねたいこと、願いたいことがあっても、牛や羊を捧げる必要はない。捧げものとしての献金は、自分のお金で、自由に自分の気持ちを表現したら良い。天の父なる神様と、直接向き合うことが出来ないと感じているすべての人のために、私がその「架け橋」になろう・・・・・イエスの思いは、そこにありました。

 一緒についてきた弟子たちは、この様子を見て旧約聖書の詩編の言葉を思い出したと福音書記者ヨハネは記しております。弟子たちが思い出したという「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉は、詩編の69編の10節にある言葉です。詩編はこう歌っています

「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば、そうするからといって嘲られ、粗布を衣とすれば、それもわたしへの嘲りの歌になります。」

 主イエスが、神殿で商人たちを追い出したときに、弟子たちが思い出したこの詩編は、実は「苦しみのどん底」に沈むある詩人の心からの叫びを記した一編の詩でありました。弟子たちは、主イエスの粗暴な振る舞いの奥にあるイエスの深い悩み、言葉にならない苦しみを見通していたでしょうか?主イエスが、羊や鳩を追い立てて逃がし、両替人の台をひっくり返して「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない!」と叫ばれた時に、弟子たちは主イエスの心の内を知っていたでしょうか?

 答は「否」です。弟子たちのうちある者は、このイエスの荒々しい振る舞いに革命の予兆を見て酔いしれたでしょう。しかし、イエスの思いは、イエスの熱意は、同時に彼自身の受難を避けられないものとして決定づけたのです。

 主イエスの「十字架の受難」は、彼自身の「家を思う熱意」と表裏一体でした。主イエスの受難を意味する英語the Passionは、情熱、熱意という意味をもつ単語でもあります。残念ながら、ギリシャ語の語源的には、ここで出てくる「家を思う熱意」という言葉は、passionの語源である「パトス」というギリシャ語とは別の「ゼーロース」という単語があてられており、語源的には一致しませんが、意味的には「受難」と「情熱」は同根です。

 主イエスの「熱意」は、私たち一人ひとりが「困難を克服すること」を願っての「熱意」であり、そのために「神ご自身が命を投げ出した」という聖書の語りかけを、私たちは真摯に受け止める者でありたいと思うのです。

 

<2月の教勢>

集会/

15

22

 

平均

主日礼拝

30

32

27

28

 

29

聖餐

26

 

 

 

 

26

CC

10

80

69

 

41

CC小中

14

22

19

15

 

18

保護者礼拝

 

27

 

 

 

27

聖研

 

 

17

 

 

17

女性会

 

 

15

 

 

15

英聖研

 

 

 

 

宣教勉強会

 

 

 

17

 

17

 

 

*維持献金(2月)

 高橋真一、高橋恵、加藤定秀・三枝子

 鈴木やす、内田威生子、渡部孝子、大牧正子

 佐藤眞紀子、田島靖則・奈織美、

 御厨勝則、御厨美代子・大山絵美、

 堀口まひろ(2-3月)、渡辺映子

 高橋健三、高橋要子、江本裕子

*特別献金

 感謝:浅田邦夫・千栄子、佐藤眞紀子

    佐藤 翠、平井典子

 誕生:堀口まひろ  土地会堂使用:幼稚園

*建築献金:山本初枝、浅田邦夫・千栄子

      内田威生子、渡辺映子、平井典子

 

 

 

 

<2月の会計報告>

礼拝献金

89,102

維持献金

182,500

特別献金

159,000

資産収入

 

他の収入

 

借入金

 

前月繰越金

366,675

収入合計

797,277

 

 

協力金

 

プール制負担金

 

特別協力金

 

支援金

68,950

主任牧師給与

313,200

福利負担金

52,120

聖壇費

606

伝道費

 

集会費

 

教育費

2,500

通信費

7,128

消耗品費

2,928

旅費

 

光熱用水費

40,970

什器設備費

24,760

保険料

 

慶弔交際費

 

営繕費

6,919

雑費

105

建築積立繰出金

111,000

支出合計

631,186

仮払金

 

次月繰越金

166,091


 

 

 

<新園舎・教職舎落成祝福式 祝金受領者名簿>*敬称略

ルーテル市ヶ谷教会、ルーテル大岡山教会、ルーテル市川教会、ルーテル日吉教会

大森ルーテル幼稚園、田園調布ルーテル幼稚園、蒲田ルーテル幼稚園、大柴譲治教区長

ルーテル大岡山幼稚園、ルーテル横浜教会、ルーテル保谷教会、ルーテル都南教会、丸山正昭

雪谷小学校脇田廣校長、大山英雄、市川智之、本多正明・尚美、星野徳治・淑子、村田雅志・歩

宗籐純子、笠間多恵、植木・杉本・高寺、西山三郎、大木、伊津野、富岡、須山芳枝

矢沢商会、田中電気商会、東雪自治会永久保孝治会長、東冷電設、谷川設備工業、大原工務所

須藤工務店、大滝文具、幼稚園教師一同

 

 

 <4月 教会・幼稚園予定表>


 

5日(日)

受難主日

定例役員会、幼稚園運営委員会

7日(火)

幼稚園始業式

8日(水)

幼稚園入園式

9日(木)

洗足木曜日合同礼拝

(於:雪ヶ谷教会)

12日(日)

復活祭、祝会

19日(日)

 

 

復活後第1主日

聖書研究会・女性会

1500〜 小平墓地墓前礼拝

26日(日)

 

入園感謝礼拝

(「勉強会」お休み)


 

 

<4月 礼拝奉仕担当表>

 

礼拝説教

主日礼拝

奏楽

保護者

礼拝奏楽

    礼 拝 当 番

  こどもの教会

聖書朗読

奉献の祈り

田島靖則

御厨美代子

お休み

高橋真一

渡部孝子

大牧正子

 

12

田島靖則

高橋 恵

田島奈織美

大牧正子

浅田邦夫

田島靖則

佐藤眞紀子

19

田島靖則

田島奈織美

お休み

高橋要子

野村純子

中学生

 

26

田島靖則

佐藤 翠

お休み

内田威生子

乙守ミチ子

高橋真一

吉田紗和子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<4月 礼拝で歌う讃美歌>

5日

 (教会讃美歌)

12

 (教団讃美歌)

19

 (教会讃美歌)

26

 (教団讃美歌)

 

159

80

317

501

146

154

148

546

170

410

346

502

260

こども讃美歌114

226

541

 

 

<編集後記>

 園庭の桜がようやくほころびはじめました。

 本日は女性会主催の「お花見会」ですが、気温も低めで花は一分咲きといったところ。

 残念ではありますが、暖かい園舎の2階から「高みの見物」ですから、ご招待のお年寄り方も安心です。

 さて、次週は4月。どんな新入園児たちがやってくるのか楽しみです。

 

 

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